世界のメルトダウンその3 国家の意匠はまちまち
(13年前、「意味が解体する世界へ」という本を草思社から出版した。
米国のイラク攻撃が、「自由」とか「民主主義」というスローガンへの幻滅をかきたてると同時に、米欧諸国の足元でも移民により多民族国家化が進行して、近代の「自由民主主義」が危殆に瀕している様を随筆風に書いたものだ。僕が自分の書いた中でいちばん好きな本。
そして今、13年前に書いたことは世界のメルトダウン現象を起こしている。そのことを書いた共著本の出版を策していたのが頓挫したので、ここに自分の書いたものを発表していくことにする。これはその第3回)
国家の意匠
国家の形は様々だ、と言った。これを本格的に論じようと思ったら、原始人の部落とかオリエントやギリシャや中国における都市国家、そして現代のISISを思わせるようなならず者の武力集団から出発し、周辺の都市国家を束ねて作られたローマ帝国あたりから話しを起こさなければいけない。しかし、ここでは筆者の長い外交官生活で垣間見た、様々の国家をあげるにとどめる。
米国は、歴史が浅いと侮られるが、共和制・民主主義の国家としては、世界で最も長い歴史を持つ。移民たちが合議して作り上げた国家で、基本思想を当時西欧で成立していたロックの自由主義、モンテスキューの三権分立に置いている。ワシントン、ジェファーソンたち建国の父とされる人たちは憲法を作るに当たってこれらの思想を引用しつつ徹底的に議論をした。その後多数の修正を重ねながらも、この憲法の基本は残っている。世界で最古の成分憲法なのである。米国が近年直面している問題は、強い権力を持つ大統領を国民が直接選ぶ(各州の大統領選挙人を選ぶ建前にはなっているが)やり方の、マイナス面が露わになってきたことである。
米国の社会は一時的な気分、感情のままに政治家を選ぶポピュリズムが強くなっているため、資質より快い弁舌の能力で大統領が選ばれる場合もある。そして、予算決定権は議会が持つために、現在のように大統領は民主党、議会は共和党が多数ということになると、政治は麻痺し、外交は二重、多重になりやすい。米国のような大国が議院内閣制で治まるかどうかわからないが、今の大統領制は修正が必要だろう。そして米国社会の多民族化は顕著であり、しかも以前と違って欧州以外の地域からの移民が増えているために、自由、個人主義、民主主義、節倹を尊ぶプロテスタンティズムといった米国の価値観が変容しつつある。
ソ連はどんな国家だったかと言うと、ここは多民族という意味では米国と同様の多様さ、複雑さなのだが、米国と少し異なるのは少数民族が各地方に固まって住んでいる、つまり、昔ロシア人に併合、征服されたあとが残っているという点だ。もっとも、大都市では様々の民族がごちゃごちゃと暮らしていて、その点は米国と同じになっている。各民族には暗黙の序列があるのだが、それを民主主義とか共産主義とかの麗しい理想でごまかして団結を演出する点も米国と同じである。米国とソ連の違いは、ソ連の最高権力者である共産党書記長は選挙の洗礼も受けずにいつまでも権力の座に残れたこと、ソ連は表向き連邦を名乗りながらも、地方共和国の財政、人事はモスクワが牛耳っていたこと、そして何よりも、ソ連では経済のほぼすべてが国有で、公務員が経済計画に従って企業を運営していたことにある。
米国、ソ連、中国といった多民族超大国の対極にあるのがシンガポールや台湾のような都市国家、あるいはそれに準ずる小規模の国家である。日本は中型の国民国家の典型なので、シンガポールのように一つの都市(東京都程度の面積)が、自分は国家だと称し、首相や内閣や政府など国民国家の装置のすべてを備え、多数の国に大使館を置いて外交官を配置しているのを、どこか理解できない。東京や大阪が独立国家を標榜して同じことをした場合を無意識に想定して、違和感を感ずる。因みにシンガポールの外交官は、他のASEAN諸国のそれと違ってコネや家柄でなく、試験、実力で選ばれるので優秀である。国家は小型でも、世界でかなりの存在感を持っている。
台湾に行ってみると、少し別の違和感を感ずる。蒋介石の国民党がここに逃げてきて統治を始めた時は、ソ連にならって厳格な上意下達の専制体制(国民党は早くから、ソ連の「政党国家制」――一党独裁による効率的な国家建設――をその模範としていた)、そして経済では国有企業中心の集権制を敷いたのだが、その後民主化が進んで、今行ってみると雰囲気や言論は自由、しかも生活水準も高く、申し分がない。その点は一般大衆も心得ているから、タクシーの運転手も「今のままがいい。台湾は台湾という独自の国で独立したいとは思うけれど、中国がそれを許さないなら、それでもいい。とにかく今のままで、そして中国とは一緒になりたくない。今の自由がなくなってしまう」ということを言う。
しかし「独立国家でなくても、どの国の一部でもない存在」というのは、国際法の教科書には書いてない。「お前は国家ではないだろう」と言っても、台湾はGDPでは約五千億ドル、イラン、タイのそれを上回る世界第二十六位、外務省に相当する外務部があって、ここは国交のない諸国にも代表部を持ち、大使に相当する「経済・文化代表」を置いている。これは都市国家を超えた立派な国民国家の構えなのだが、それでも国家ではないと言う。ここでは、国家であるかどうかは言葉の問題で、台湾の市民にとっては「今が一番いい。今のままでいい」ということなのである。
こうした小型の国家の対極にあるものとしては、多民族超大国である米・中・ロシアの他にEUという「超国家的」存在がある。欧州委員会という政府があって、この政府が提案することをEU諸国の首脳会議(欧州理事会)で採択して実行するから、超国家的と言われるのである。EUは、米中露のような多民族超大国とは異なり、国内の少数民族を征服・併合した結果できたものではない。EUは、近代的な主権国家が自由意思で作り、その主権の一部(対外通商交渉における代表権)を欧州委員会に委ねたものである。だから超国家的と言われるのである。
我々日本人は政府に税金を取られたり、米国にあれこれ指図されることがいやでしょうがない。日本政府も米国政府もない、「EUのような超国家」、つまり「アジア共同体」を作ればさぞかしいいことがあるだろうと思っているが、EUの超国家性には大きな制約がある。欧州委員会の権限は通商、金融の面で最も強いが、外交や財政政策はそれぞれの政府に権限が残されている。しかも通商問題における欧州委員会での意思決定過程は煩雑、緩慢そのもの。
議論(何を議論するべきかは欧州委員会がイニシャティブを取ることが多いが)は各国の担当省庁(農産品問題なら農業省、工業製品問題なら経済省という具合)から始まる。それを担当各国の外務省が集約し、ブラッセルに置いてある自国の代表部に伝える。そしてブラッセルの各国代表部の農業担当官が集まって各国間の違いを調整し、その結果をランクがもう一つ上の参事官クラスの会合に上げる。参事官クラスの議論がまとまると、今度は各国代表部の大使が集まって、各国間の最終調整を行う。それは、年四回以上開かれる欧州理事会(要するに首脳会議)で採択され、欧州委員会に「マンデート」(何々をこういう風に実施せよ。交渉において相手に譲れる限界はどこどこまでである、という交渉指針)を下す。
つまり超国家と言っても、欧州委員会が各国に命令するわけではない。むしろ逆なのである。欧州委員会は国家とはみなされていないので国連の加盟国でもなく、ましてや安全保障理事会のメンバーでもない。欧州委員会は外国に代表部を置き(国ではないから大使館を名乗ることはできないが、メンバーは外交官扱いで、外交特権も持っている)、大使を置いているが、政治や国防についての代表権を持っていない。その扱いは主権国家の大使より下に置かれているのである。EUを超国家と見なして、あれこれバラ色の幻想を持っても、現実の外交では使えない。 (続く)
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