フィンテック のもたらす国民国家の溶融と 国際関係論刷新の必要性
(これは、4月27日に発売したメルマガ「文明の万華鏡」第48号の抜粋です)
3月に「中央銀行が終わる日: ビットコインと通貨の未来 」という本が新潮選書から出た。著者の岩村充氏は日銀出身で、今は早稲田大学ビジネス・スクールの教授。まだ読んでない(その後読んでいるが、難解。一度読んだだけではわからない)のだが、表題は僕が今感じていることと平仄が一致する。
今、日本の論壇では「フィンテック」、あるいは「ブロックチェーン」という言葉が行きかっていて、方々でセミナーが開かれている。要するに高性能のコンピューターに個人、法人の口座残金の刻々の変化、支払い、領収の全てを記録するということ。そんなことは、個々の銀行がこれまでもやってきたことなのだが、「フィンテック」では銀行の枠を超え、一国内のすべての金融、あるいは世界全体のすべての金融状況を把握する、各個人、法人の信用状況も一目瞭然ということになる。そうなると、送金するのに銀行を経由する必要はなくなる。いわばインターネットが世界でただ一つの銀行になり、口座Aに残金が十分あることを確かめると、口座Bに直ちに送金してしまうからである。日本の商業銀行にとっては、送金事務手数料収入を失うのは、相当痛いことだろう。そしてフィンテックのネットワークが国単位で独立していれば、フィンテックの発達は各国の中央銀行による金融統制を一糸乱れぬものに強化し得る。何しろ一国の金融をネットが完璧に把握してしまうのだから。モノとカネの間のバランスはきっちり守られ、金融投機は難しくなるだろう。
ところが、フィンテックにビット・コイン、あるいは他のデジタル・マネーを加味すると、驚天動地のことが起きる。ビット・コイン、あるいは他のデジタル・マネーが世界で共用され、更にそれが単一のフィンテックのネットワークで結ばれるとなると、各国の中銀は、通貨発行・調整という主要な権能を奪われてしまう。その時、このネットワークは、ビット・コインのように数式で発行量が限定されるデフレ的なものになるのか、それとも米国のような経済大国の通貨当局がグローバルな発行量を定める「デジタル・ドル」のようなものになるのかどうか。
その場合、ロシアのようにエリート層が自分たちの利権保全に汲々としているところは、「国家の主権」を強く主張して、グローバルなフィンテックの網には入らないですまそうとするだろう。終戦直後、IMFやGATTに入らず、経済的後進性を加速度的に強めたソ連の二の舞である。そして世界のマフィア、暴力団も、マネロンをするために、裏のフィンテック網を作ろうとするだろう。あるいは西欧中世のように、多額の取り引きにはヴェニスの発行する金貨ドゥカート、少額の日常の売買には現地当局の鋳造する銅貨、というような棲み分けが行われるようになるかもしれない。
日本の場合でも、米国の通貨当局やどこかのスパコンが差配する「グローバル・フィンテック」に金融政策を牛耳られることは、国家としての権能を大きく奪われることを意味する。17世紀、西欧で国王が(次いで議会が)中央集権国家を築き、今の主権国家の原型を作り上げた時、国王の権力の道具としては常備軍、官僚化した貴族と並んで、通貨の発行権、つまり中央銀行があった。「デジタル・マネー」の増減は日銀の管理に服さず、米国連銀かどこかのスパコンによる管理に服するということになると、もうアベノミクスもできなくなってしまう。
先進諸国の間ではこうして「国家溶融」への圧力が高まっている。それはフィンテックだけではない。グローバルな資金の移動は、一国家の経済を大きく乱すし、モノの生産もグローバルなサプライ・チェーンの中で行われている。アイ・フォーンが米国製か中国製か議論するのは、もはや意味がない。
これまで国際関係というとすぐ、やれ北朝鮮がどうだ、中国がどうだという、「君これ知ってる?」式の議論がまかり通って来た。しかし国際関係はクイズのように空しい知識を争うだけのものではない。今は個々の企業、個々人の生活に関わるものになってきたのである。全く新しい「国際関係論」を組み立てないといけない。これからの国際関係論は経済、軍事、企業経営戦略、科学技術、フィンテック等多くの分野を総合・融合させたものでないといけない。
一方、工業化以前の諸国の間では19世紀的、いや中世そのものの富の奪い合い、戦争が続いている。ここは、古典的な国際関係論の世界である。
ところで、日本は先進国だと皆思っているが、日本人個々人の資質は「世界のグローバル化」にはとてもついていけない。英語、中国語ができないことももちろん深刻な問題だが、社会の基本的なメンタリティーが外向きではなく、内向きなことが問題だ。教育、しつけを変えないと、日本人はグローバル化についていけない。それでもいい、自分は日本の中でうまくやっていくから、と思うかもしれないが、企業の幹部には外国人がどんどん進出してくる。日本人も世界を良く知り、自分で意見を持ち、自分で企業戦略を立てることができるようにならないと、上司は外国人、自分は働き蜂、あるいは奴隷的な役割におとしめられてしまうだろう。
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