ベルリンでの情景
(これは、12月末発行メルマガ「文明の万華鏡」に掲載した小文の一部です。11月初め、ベルリンに行った時の紀行文です)
ベルリンにはまだちゃんとした国際空港がない。シェーネフェルト空港を拡張して新しいターミナルを作ったら、できた後で消防基準に違反していることがわかって、持ち腐れ、市長(?)は責任を取って辞めたと言う。そこで東ドイツの時代に使っていた、シェーネフェルトの小さなターミナルに着く。西欧風にこざっぱりはしているものの、本当にドイツ風に愛想がない小さな空港だ。荷物受け取り場のビルボードにMega Manga Conventionの表示があったのだけ目新しい。
空港からタクシーに乗る。運転手に聞くと、トルコ人2世だと言う。同じくトルコ人2世の女性と結婚して子供もいる。僕が「東京」から来たというと、この頃の世界では東京というのはそれだけでブランドらしく、憧れにしびれた風。僕が「時々トルコに帰省するのか?」と聞くと、「そうだ。でもトルコに2週間もいると、ドイツに帰りたくなる」と彼は言う。「ベルリンの連中は冷たい。道も絶対譲らない」と言う癖に、トルコの故郷の集団主義的習俗にはもう耐えられないのだろう。今のドイツでは移民の流入が大きな問題になっているが、トルコ人の場合には西欧文明にわりと同化するようだ。因みに自慢じゃないが、この会話は全部ドイツ語。35年前ボンで3年勤務したことがあって、その時仲間に迷惑をかけないよう、ドイツ語を初歩から必死で勉強したからだ。
空港からの道、途中で右側に大きな空き地がある。それは、テンペルホフ空港のあと。テンペルホフ・・・。1948年、戦後間もなく西側とソ連はベルリンの分割をめぐって争い、ソ連は西側からベルリンへの陸路を閉鎖する。西側は空路、大量の物資を毎日空輸して200万の西ベルリン市民を救う。テンペルホフはその主要舞台。事故を起こした時もあった。そして今、ここは空き地になっている。空き地の隅の元ターミナルは今、シリア・イラク難民の収容所となっている。
ベルリンのホテル。外観は薄汚い長方形の箱。一見病院風。エレベーターはやけに大きく無愛想で、まるで病人を担架で運ぶために作られたよう。廊下は長く長く、はてしなく、全く同じ意匠の素っ気ないドアが独房のように続いていく。朝食の食堂は、なんと長いベンチが長い食卓を囲み、黒パンと薄いスープとザウアクラウトでも食べていると、刑務所そのもの。小ぎれいで冷たくて、合理的で軍隊的でプロシア的で。
次の日、ベルリンはからりと晴れ渡り、プラタナス(?)の葉が歩道を黄色に敷き詰める。ウンター・デン・リンデンからブランデンブルク門を通って西に向かうと、大きな塔がある。19世紀の対仏戦争などでの戦勝の記念碑だ。ドイツが国民国家の雄として戦勝に戦勝を重ねていた時代の記念碑。第2次大戦で負けてフランスに持ち去られていたのが、ミッテラン政権の時に返してくれたのだそうだ。
ベルリンは帝国主義ドイツの象徴だったが、そのドイツは今ではEUやNATOの中にからめとられて、すっかり平和主義になってしまった。あるイタリア人の友人が言っていた。「今のドイツの一般国民は、国がどうしたこうしたなど考えない。スイスのように自分だけ平和でいればそれで充分なのだ。そしてエリートの方は財務省に牛耳られていて(けちだ)」ということ、今の日本によく似てる。似てると言っても、ドイツ人はそう思ってない。「ドイツは戦争の罪を贖ったが、日本は謝罪さえしていない」と思い込んでいる。自分は正しいと思い込むと意固地になるのが、ドイツ人の癖。もっとも、夕暮れのベルリンを歩いていくと、都心に「ユダヤ博物館」(2001年完成)があって、虐殺を含めたユダヤ人の歴史を展示している。日本で言えば、東京の錦糸町あたりに南京虐殺博物館とか慰安婦博物館があるのと同じこと。これは立派だと思う。まあ、ドイツ人は「自分たちは悪くない。全部ナチがやったこと」という、心の整理をしてあるので、これで構わないのだろう。日本人は情が先に立つ。ドイツ人は頭で考える。
ベルリンが東西に分裂していた冷戦の時代。西ベルリンに来ると、いつも東ベルリンに出てみるのがお決まりのコース。東西ベルリンの境界には「チェックポイント・チャーリー」があって(他にもポイントはいくつかあった)、東ベルリンに入ると、車の底に爆弾は貼ってないか、東から西に出る時は、車の底に人が張りついて(逃げようとして)いないかを厳重に調べられたものだ。今、チェックポイント・チャーリーは「閉まっている」。シャッターがおりた向こうにはゴミ箱がいくつか。そして家が立ちふさがっている。もはやチェックポイントの面影は何もなく、通りには「チェックポイント・チャーリー」の名を冠したカフェやらレストランやら、どれも二流の店がいくつかあるだけ。
だが昔の東ベルリンの路地の方に少し入っていくと、路面電車のレールがくねくねと夜の路地に吸い込まれていく。まるで東ベルリンの過去、20世紀初頭の欧州の過去の中へのように。
その昼間に乗ったタクシーの運転手は、ためらった末、カザフスタンに住んでいたドイツ人だと白状した。これは18世紀の末、エカテリーナ女帝が、自分の故郷北ドイツから招へいしたドイツ人たちが、スターリンの時代に中央アジアに追放されていたものである。彼は、盛んにプーチンの悪口を言い、腐敗していると言う。たしなめると、それでも権力の座に長く居座っているのが問題だと言う。そんなことお前に関係あるまい、それに換えてもどうせ同じようなZhurik(横領する者の意のロシア語。ここら辺の会話はドイツ語からロシア語に移っていた)が来るというと、お前はまだロシアにいる自分の祖母と同じことを言う、と言う。僕が、「結局、経済を良くしないと、Zhurikはなくならないんだ」と言うと、運転手は非常に納得してくれた。最後にこちらを振り返ったのを見ると、ぎすぎすしたドイツ語で想像していたきつい顔ではなく、初老のロシア人的善良なスマイル。ドイツ語というのは、しゃべる人の声音をきつくしてしまうらしい。
出発の日、空港へのタクシーの運転手もトルコ人2世だった。僕が、イラクやシリアから難民がどんどん入ってくるがどう思う、と聞くと、運転手は言った。
「難民? いいじゃないか、入ってきて。同じ人間だ。日本はあまり難民入れないんだって?」
「中国人や韓国人が200万もいるから」と僕。
「それは難民じゃないだろ」と運転手。しつこい。
「終戦直後は日本人自身、難民だったんだ」と僕はごまかす。
「トルコもそうだ。だから日本とトルコは関係いいんだ」まあ、何でもいい。いずれにしても、日本に入ってきたい希望者は沢山いるのだ。少し国境を閉めておかないと、沢山入ってきたらこちらが飯の食い上げだ。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.japan-world-trends.com/cgi-bin/mtja/mt-tb.cgi/3121