世界史の意味 ユダヤ人という人たち 2 世界の金融で占めてきた地位
先回は「ユダヤ人」と呼ばれる人たちは果たして単一の人種・民族なのかについて考察した。一応の結論は、パレスチナに集住していた「ユダヤ人」が地中海周辺諸方に分散し、周囲の異民族とも混血したし、異民族もユダヤ教に帰依すればその子孫はユダヤ人とみなされ得るので、今日ユダヤ人と称される人たちは随分多様性は帯びたものの、、だいたいの場合、中東「本場のユダヤ人」のDNAを持っているのではないかということであった。
そこで今度はいよいよ本題。ユダヤ人が世界の金融で果たしてきた役割についてである。これは、ユダヤ人の歴史を語るのとほぼ等しいことなので、容易なことではない。世界史やヨーロッパそして米国の経済史上、ユダヤ人の役割は急に顕著になるかと思うと、そのあとはまた資料が急減するということの繰り返しで、一貫した発展過程を跡付けることが難しい、だからと言って、個々の局面(たとえば米国の連邦準備制度の立ち上げ)については詳しい資料が存在していて、それをここに一々転載しても面白くないからである。
そこで、世界史上「ユダヤ人」の介在が目立った場面を簡潔に並べた上で、それぞれについてまだ(僕が)わからないこと、そしてそれぞれの場面の間の歴史の空白(と僕に見えるもの)にはどういう推移があったのかについての推測を付していくことにしたいと思う。
(「ユダヤ人」はいつ頃から、またどうして金融で伸びたのか?)
余剰生産物は商業を生む。そして商業のためには貨幣がいる。そして通商・貨幣があれば、保険・融資・預金、つまり金融業も生まれてくる。江戸時代、北前船が日本海岸諸港を結んでいたが、例えば今富山に行ってみると、当時の廻船問屋(銀行・保険)が今では北陸銀行になって、江戸時代の建物も現役でやっているのだ。
ユダヤ人の活躍舞台、つまり西方(Occident)でも、メソポタミアの時代から金融はあったに違いない。ほぼ同時代、フェニキア人と呼ばれる人々(これも単一の民族ではない、とする説がある)が地中海沿岸にカルタゴなど通商のネットワークを張り巡らした時にも、金融はあったに違いない。フェニキア人の子孫と思われるレバノン人(そういう人種・民族がいるのかどうか知らないが)は、今でもビジネス・金融に長けている。日産のゴーン社長の両親はレバノン人だし、メキシコにもなぜかレバノン出身の大実業家が数人いる(Carlos Slimは携帯電話などで財を築いた)。
他方「ユダヤ人」は、紀元前586年のアッシリアによる征服に始まり、紀元1~2世紀に数度の蜂起をローマ帝国に徹底的に弾圧されて、地中海の諸方に分散していくのだが、そのネットワークを使って次第に金融に手を染めていったのだろう。
だが、ローマ帝国での金融はどうであったのか? そしてそこでのユダヤ人の役割はどうであったのか? 「古代ローマを知る事典」によると、ローマ帝国時代の銀行・金融こそは、長らく研究者の間で議論され、今もって解決を見ていない問題なのだそうだ。
しかしローマの時代、農業も手工業も高度に発達していたし、投資・増殖概念もあったし、両替業者もいたし、買い主に商品を引き渡し売り主に代金を支払う仲介業者もいた。共和政末期から元首政期にかけての利息は、6%から10%程度だったという記録も残っている。こうした金融業務は多くの場合、奴隷身分の者たちが行っていたそうで、その中でのユダヤ人の役割はわからない。新約聖書(ローマ帝国時代のこと)では、イエス・キリストがエルサレムの神殿の前で両替人の台をひっくりかえしたという記述が出て来るので、ユダヤ人も地元で両替・銀行業務をしていたのだろう。
前回書いたように、地中海地域のユダヤ人は、イスラム治下のスペインに集合した。イスラムは宗教に寛容だったし、キリスト教勢力も「レコンキスタ」でイスラム勢力を駆逐した過程で、ユダヤ人の力を重宝したからだという(「1492コロンブス」等)。彼らはトレードなどの大都市に集住して農業、商業、手工業、徴税請負などで生計を立てていたが、特に金融面で勢威を振るったというところまではいかなかったようだ。そしてレコンキスタが完成してユダヤ人追放令が出る1492年の以前から、キリスト教支配地域での反ユダヤ運動は始まっていた。例えば1391年、セヴィーリャでユダヤ人虐殺が起きている(「スペインのユダヤ人」関哲行)。
そしてレコンキスタが完成する少し前、1478年にアラゴンとカスティーリャの両国王は、宗教裁判所の人事権・運営権をローマ教会から手に入れることに成功する。宗教裁判所とは言え、刑事・民事すべてを裁くものだったろうから、国王にとっては司法権を手に入れること、そして裁判官たちにとっては、都合のいい判決を求める者たちからの賄賂等の収入源になったのだろう。そしてこの宗教裁判所が、ユダヤ人の追放・またはキリスト教への転信を国王に求め、国王はこれを認可してしまう。これは宗教上の理由と言うよりは、ユダヤ人が享受していた何らかの商権、特権を奪おうとする目論見によるものだっただろう。そのあたりに言及した文献には接したことがないが。
転信を迫られたユダヤ人は、その多くがカトリックに帰依したが、そうでない者は地中海地域へまた分散していった。14世紀末スペインにユダヤ人は約25万人いたが、追放令で7~10万人が出国し、15万人がキリスト教に改宗したと見られている(「スペインのユダヤ人」関哲行)。国外へ脱出したユダヤ人は、宗教的に寛容なポルトガル、ヴェニス、あるいはオスマン治下のイスタンブール(スペインによるユダヤ人追放令のしばらく前、1453年、コンスタンチノープルがオスマンの手に落ち、1000年余も続いた東ローマ帝国=ビザンチン帝国=キリスト教国が滅んでいた)に蝟集した。
イスタンブールはシルクロードの終点。ヴェニスの商船はここで中国製絹織物、陶磁器を仕入れると、ヴェニスから山を越え(ローマ時代のハイウェー=ローマ軍道のネットワークがある。)北ヨーロッパ方面にも出荷していたのである。ユダヤ人は、イスタンブールやヴェニスをハブにして、地中海諸都市に分散したユダヤの親族をネットワーク化して金融商売をするようになっていただろう。
ポルトガルに行った者は、後にポルトガルがスペインに併合されると、アントワープ、次いでアムステルダムへと居を移していく。ヴェニスは製鉄業(強大な海軍と造船所を有していた)の労働力として欧州各地のユダヤ人を誘致して(それだけがユダヤ人移住のきっかけではないだろうが)市内の一角に集住させていた(「ゲットー」という言葉の始まり)。そしてユダヤ人には質屋商売が許されたというから、このあたりから銀行業に進出していったのだろう。
(金融をしていたのはユダヤ人だけなのか?)
ここで起きる疑問は、中世以降、欧州での金融と言うと、すぐ「ユダヤ人」の名が出てきて、あたかも金融は汚れ仕事としてユダヤ人の独壇場となっていた、という一般の通念が、はたして正しいものなのかどうかということである。
中世初期、ローマ教会はキリスト教徒が利子を取ることを禁じていた。それはまるで、今のイスラム教も利子を取るのを禁じていることに似ている。「自分では働きもせず、人を働かせて利子を取るのはけしからん」という建前なのだろうが、キリスト教会はローマ帝国時代、税務署も兼ねていて、その伝統は帝国崩壊後の混乱が収まると復活した。欧州全域というわけではないが、教会は「10分の1税」を農民に課し、それで王国の上に座す一種の超国家のようなものを欧州に作り上げた。西ローマ帝国が実質的に復活したと言ってもいい。後に1378年から1417年の間、法王座はローマとアヴィニョンに分裂していた時があるが、当時アヴィニョンの法王座を訪れた者は、そこの僧侶たちがうず高く積まれた金貨の勘定で忙しいのを目撃している(「ルネサンス」ポール・フォール)。
だからあえて勘ぐると、教会はこのふんだんなカネを融資に回して利殖していたのではないか? 利子を取るのが今でも禁じられているイスラム世界では、「イスラム金融」なるものが発達している。「手数料」とか、あるいはもっと巧妙な名目で、利子を実質的に徴収するやり方である。中世西欧でも、同じことは行われていたに違いない。教会は融資ビジネスを独占するために、一般人には利子を取るのを禁じたのではないか? 記録では、有名なシトー修道院がユダヤ人の高利貸を使って施設増設を実現している。今でも法王庁傘下には通称「ヴァチカン銀行」というのがあって、最近不正事件を起こしている。
中世キリスト教会の徴税、蓄財、増殖業務の中で、ユダヤ人が果たしていた役割はわからない。またヴェニス、ジェノヴァでも、銀行業務は13世紀頃から発達していたし、フィレンツェのメディチ家も15世紀以来、銀行業務で財を成している(メディチ家の場合、1410年ローマ教皇庁会計院の財務管理者となったことが大きい)のだが、この中でユダヤ人が果たしていた役割の大きさもわからない。おそらく現代と同じく、「銀行業務をやっているのはユダヤ人だけではない。ユダヤ人がどのくらいの比重を持っているかは計量できない。いずれにしても彼らが一枚岩で、何かの陰謀を持って動いている、というわけではない」というのが実感だったのではないか。
しかしそれにしても、中世西欧でユダヤ人が金融業務で台頭したのは事実だ。コロンブス(彼自身についてもユダヤ人であったとする説があるが、それを裏付ける決め手となる資料はない)の「インド」探検旅行の費用は、アラゴンの大蔵大臣ルイス・デ・サンタンデルと、収入役のガブリエル・サンチェスが工面したものだが、二人ともユダヤ人であった(「ユダヤを知る事典」P74)。
(ユダヤ人銀行家の拡散)
当時の欧州経済の中心、地中海地域(ローマ帝国の遺産)の通商は、ヴェニス、ジェノヴァ等に牛耳られていた。オスマンの台頭で、ヴェニス、ジェノヴァとも地中海東部の資産、利権を奪われたのだが、その後ヴェニスはオスマンに流入する東方物産の西欧での販売を独占する。つまりヴェニスは異教徒のオスマンと野合して繁栄したのだ。そこからはじき出されたジェノヴァはオスマンに対抗するハプスブルク、つまりスペイン王家に入れ込んで、スペイン、ポルトガルを尖兵に新大陸の金銀、そして東方の香料利権で儲ける。「ジェノヴァの商人」コロンブスが、スペイン王室の援助で「東インドへの航路開拓」のために出発したのは、その発端である。スペイン、ジェノヴァの資本はアントワープに集中し(多分、アントワープの方がスペイン本土より規制が緩かったのだろう)、ハプスブルクの御用商人フッガー家、ウェルザー家もここに大きな支店を設ける。このジェノヴァ・ハプスブルク連合の中で、ユダヤ人銀行家はおそらく大きな影響力を発揮していたことだろう。
そして地中海商圏からは、もう一つのルートが北方のハンザ同盟諸都市に向け伸びる。アルプスを越えた交通のハブにはアウグスブルクがあり(ローマ軍道のハブであった時代からあった街である。「軍」道とは言え、ライン河口まで伸びる、ローマ帝国領の物流を担う大動脈だ。)、そこにはフッガー家が本拠を構える。アウグスブルクの北にはニュルンベルク、ライプチヒ、ドレスデンなど錚々たる町が並んでいるが、これはヴェーザー川やエルベ川水系を通って北方のリューベック、ブレーメン等ハンザ同盟諸都市に通ずる商業路上にできた交易の拠点だったのだろう。
この北方ルートにも、ユダヤ人のプレゼンスはある。まずフッガー家だが、アウグスブルクで、繊維製品の製造・販売で身を起こし、後に近くの銀鉱山の開発権をハプスブルク家からせしめて大きくなった商会。ローマとヴェニスに支店を持ち、当主にヤコブという名を持つ者が二代も続くので、ユダヤ系かもしれない。フッガー家はルターの宗教改革の際、ローマ教会による「免罪符」の発行・販売を独占的に引き受けていた悪徳商人として名高い。17世紀には英国等との戦争の泥沼にはまり込んだスペイン王室に貸し込み過ぎ、王室のデフォルト騒ぎに巻き込まれて消えて行く。
もう一つ、北方ルートの代表例としてはWarburg家がある。この家はヴェニスのユダヤ人銀行家アブラハム・デル・バンコの子孫で、ドイツ北方Warburgに本拠を構え、北方ルートのハブ業務を行っていたのだろう。この子孫の一人はアメリカに渡り、米国連銀創設の主謀者の一人となる。Warburgは今でもドイツ、ロンドン、スイス、米国などに根を張る、大金融財閥である。
17世紀になると、上記のスペイン系と北方ルート系のユダヤ人資本家は、アムステルダムに収斂してくる。アムステルダムは、中世初期ヴェニスやジェノヴァで開発された金融テクロノロジーを用い、アムステルダム銀行による「国際通貨」の発行、株式会社制による東インド会社の設立等で(これら手法はユダヤ人の発明によるものかどうかわからないが)、世界金融、そして植民地主義の覇者となる。
ユダヤ人が投資する国は、超大国となることも珍しくない。英国の興隆、産業革命、米国の興隆、日露戦争、中国をめぐる日米間の利権闘争、そのいずれにもユダヤ系金融資本は深くからむ。近世・現代が幕を上げる。ユダヤ人資本の支持を得た国は勝者となり、敵対する国は辛酸をなめることになるだろう。
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