イスラム・テロは宗教の問題ではない
パリで「イスラム・テロ」事件があったが、日本ではこの事件をどう解釈していいのか戸惑っているようだ。「イスラム」とか宗教とかいう言葉にこだわり過ぎていて、西欧社会の現実がどうなっているかを見ないからだ。問題は宗教よりも、西欧に移住したアラブ人がどのような境遇にあるかという、経済的・社会的なことにある。だって、イスラム教と言っても、大半は日本の仏教が葬式仏教徒呼ばれるのに似たものになっているのだし、イスラム教徒の大半は、今度のパリでのテロに批判的なのだから。
西欧は国民国家という戦争装置を作って海外市場を力で制覇、それまでインド洋の交易を仕切っていたアラブ人をポルトガル、オランダ、イギリスの軍艦が力で押しだし、商権を独占、それまで数100年にわたってイスラム帝国の栄華を支えてきた通商をアラブ人の手から取り上げてしまった。そして西欧は、その市場にモノを売りつけて産業革命を達成し、幅広い中産階級を作り上げて、それをベースに民主主義、市民社会なる価値観を形成していったのだ。言うなれば、市場経済、民主主義、人権という、現在の欧米諸国がお経のように唱える「価値観」というものは、アラブ人にとっては「良く言うよ。いい気なもんだ」という代物なのである。
1970年代、僕が初めて西欧に行ったころは、諸国はいずれも白人文明の頂点にあり、彼らは植民地、産業革命がもたらした経済的繁栄と、それを象徴するキリスト教、ギリシャ・ローマ文明、民主主義、市場経済を「グローバル・スタンダード」として振る舞っていた。その様は柵で守られた花園のようだった。
しかし1970年代頃から、労働力不足を補うために大量に移入したトルコ人、ついでアラブ人たちが西欧社会に同化せず、イスラム文化を主張するという問題が起こり始めた。白人社会の典型と思われている北欧諸国でさえも、首都ではイスラム系人口が10%を越え、特定地域に集中して同化せず(と言うか良い仕事がないので)、白人たちと摩擦を起こし始めたのである。
イスラム教徒たちが現地の言葉を完全にマスターし、高所得の仕事につくことができれば、「イスラムのアイデンティティー」をあれほど強く主張することはないだろう。北欧の言語やドイツ語は修得が難しい。そして、イスラム教徒の側でも、どこまで現地語を修得する意欲があるのか、あるいは修得してもどうせ差別されるのだという斜に構えた態度があるのかもしれない。
要するに、西欧諸国の場合、移民から成り立つ米国と違って、多民族国家にはなりにくい。西欧は、白人の白人による白人のための国家、要するに純粋な意味でのnation stateなのである。だから日本で、中国人や韓国人が感じているような、「自分たちは差別されている。不利な境遇におかれている」という気持ちをアラブ人は持つのだろう。デンマークなどでは、早い時期から移住していたトルコ系の人たちは、デンマーク社会に同化しているらしいが。
だが、アラブ人の中には、並外れた自尊心を持つ者が多い。文化とか価値観とかは、彼らにとってどうでもいい。どちらが偉いか、どちらが強いかが問題なのだ。そのような感情的な者たちを操って、テロに向かって唆し、組織の名を上げては募金を集める不逞な輩も背後にいる。
だから、西欧のイスラム・テロの問題は、「キリスト教徒とイスラム教徒の間の理性的な話し合い」などで解決するものではない。脅威はまず力で押さえる。その上で西欧諸国のイスラム教徒の経済的・社会的境遇を向上させると同時に、彼らの本国の経済・社会を向上させ、故国復帰を促すことが根本的な対策となる。
「どの神を信ずるか」より、「どうやって飯を食うか」という経済的な問題、「そしてお前たち、一人だけで偉そうな顔をするな」という心理上の問題が根底にある。
日本の場合、労働人口減少を補うために外国人をもっと入れろというような議論があるが、西欧の場合、それがどうなったかをよく調べてから決めるのがいい。おもてなしの心とか、助け合いの心を言っていても、外国人はいつも客としての分際をわきまえていてくれるわけではない。理想論だけで考えると、大変なつけを後で負うことになる。
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