国家とは何なのか 試論1
(これは8月発行のメルマガ「文明の万華鏡」に掲載したものです)
日本はポピュリスト社会になり、人々は高い権利意識を持つようになっています。「政治」への参画意識も高まり、NGOはますます盛んになっています。安倍政権の誕生で「政治より経済」の感じになり、政治参画熱の方は下火になった感がありますが、社会の底流には根強く残っていることでしょう。
同時に、戦後日本社会の柱とも言える大企業はその地位を後退させ、ヴェンチャー企業的な存在が以前よりは増えてきました。また同時に、これまでの部課長制のようなピラミッド型企業組織は相対化し、中間管理職が大幅に整理される時代がやってくる兆しがあります。
そしてこれらは、国家・政府の仕組みに見直しを迫ることとなるでしょう。17世紀西欧で起こった「主権国民国家」モデルは、賞味期限を迎えました。
というわけで、近世以来の諸国家モデルを渉猟し、今回は、西欧の国民国家モデル誕生について書くことにします。
植民地主義・国民国家・産業革命
―――西欧文明「三位一体」の黄昏、新しいパラダイムを求めて―――
日本では10年程前、「国家論」が盛んであった。だがあるべき国家体制、政府と個人の間の望ましい距離感などについては、広い議論の対象にならないまま「国家」、「国」、「政府」についての感情的な議論が横行し続けている。
経済建設の進んだ日本では、他のアジア諸国と異なり、個人の自由や民間企業の活力発揮を宗とした国家形態を取ることが可能であるにもかかわらず、90年代以来の政治・経済・社会すべてにわたる停滞の中、種々の問題の尻が国家、あるいは政府に持ち込まれている。
何か問題が起こるとすぐ、「政府は何をやっているのか」、「日本はなんたる国になってしまったのか」という議論が起こる。冷戦終結で東西対立がなくなってからは、かつては政府を批判することをもって自己の存在証明としていた学者達までもが、「官邸」に職を得、総理の威光を背景に自分のアイデアを実現できる、実現したいと競う時代なのである。
そこでは国が本来やるべき業務は何なのか、規制と自由のバランスを奈辺に求めるべきかといった基本的なことについての議論が欠落している。産業化、都市化の中で共同体や隣人社会が崩壊したため、それらが従来果たしてきた役割が政府に無原則に転嫁されているという事情もそこにはあろう。
しかし国家、あるいは政府というものは、個人を抑圧するものでもある。そのあたりの警戒心が、特に現在の若い世代には欠けているように思える。現在の日本においては、政府への批判がかえって政府の権限、陣容を増大させるものになっていることに対して、必要な防止措置が取られていない。
世論が期待するように、役人は使命を自己犠牲的に果たすものではない。役人は任務を追加されれば、人員と予算を要求するものなのである。日本は、自由な個人を中心においた近代社会、法治国家を作らなければならない発展段階にあるのに、日本人の大多数は無意識のうちに国家スケールの村落共同体を作ろうとしていることが、このような行き違いを生んでいるのではないか。
「国家論」という学問は、おそらく成り立たないだろう。国家を論ずることは、社会全体、学問全体を論ずるのと同じことだからである。世界における国家体制の推移を研究の対象に据えても、一般化、理論化、モデル化は非常に困難である。
ただその中においても、例えば英国の国家体制の推移を議論の基軸に据え、中国、あるいは遊牧民族の作り出してきた諸国家形態と比較することは可能である。また世界史においては、ローマ帝国からフランク王国への移行等、移行期の研究が不足していたが、国家体制においても断絶と継続の共存を観察することは重要である。
世界や日本を見ると、19世紀以来世界を支配してきた二つの要素、つまり主権国民国家と工業化が限界に突き当たってきたことが如実である。この論文は、この二つのうち国民国家に論点をしぼり、これが西欧史上どのように発生したのかを洗いなおし、次の3点を中心に検討を加えたものである。
①国民国家が形成された時にそれが目的としたものは、現在でも目的として有効なのかどうか。
②現在の世界における国家体制はどのような問題を抱えているのか。
③世界の国家体制はどのように変えていくことが適当なのか。
目次
「国民国家」形成の過程
中国の国家制度
古来からの日中関係についての知識の欠如
アメリカ国家の原理
イスラム帝国、アジアの港市国家の国家原理
日本の「国家」の特徴
現代「国民国家」が抱える課題と今後の方向
ガバナンスの危機
「市民社会」的価値観の溶解
経済的にもたない「国民国家」
日本が抱える特殊な問題
新しいモデルを求めて
西欧における「国民国家」形成の過程
中世の西欧ではフランク王国が分解してスペイン、フランス、イタリア、ドイツがすぐできたように言われてきたが、実際は国ができたのではなく、各王家に分かれただけでああり、その領土には飛び地も多く相互に複雑に入り組んでいた。
中世西欧は国民国家ではなく、国王の家産国家であり、国王はよく所領を巡回して諸侯の服属を確認していたらしい。首都に宮廷を置き、諸侯を貴族として侍らせるようになる絶対主義時代とは異なる。
英国はフランスにおける飛び地をめぐってフランス王家と100年戦争を繰り広げた後、1455年からは内戦、即ちバラ戦争に入った。これが1485年に終結したところで、ヘンリー7世がチューダー朝を開く。
国内が平和になったことが国王の権力を突出させるに至ったためか、それとも内戦中功績を挙げた諸侯への恩賞とするためかはわからないが、ヘンリー8世はローマ教会と殊更にことを構え、1534年に英国教会の独立を宣言するやカトリック教会の資産を没収、後のジェントリー階級に売却してしまうのである。
ローマ教会は西ローマ帝国なきあとも残った、広域行政のスケルトンのようなものであるとも言えるので 、これから独立したということは国民国家として独立するための基盤を作ったことになる。そして、新たに創出されたジェントリーからは、後の資本家、企業家が生まれていく。
清教徒革命・規制緩和・通商
英国史における次の境目は清教徒革命(1642年)であろう。西欧史では、フランス革命の方が清教徒革命よりはるかに大きな扱いを受けているが、絶対主義を破り共和制を樹立したことでは、清教徒革命も同じであり、かつフランス革命より約150年早いのである 。
後に述べるが、フランスは英国に比し税制の整備、国家体制の整備が遅れたが故、18世紀末まで続いた英国との一連の戦争を負担しきれず、その矛盾が革命を誘発したのである。
清教徒革命では、フランス革命におけるような流血、資産・所有権の移転は起きなかったが、絶対主義時代の特権・利権が廃止されたことは大きい。当時は"Trade"という言葉が流行し、なにごとも取引の対象とする、企業家精神に満ちた雰囲気になったという。
その精神は当時スペイン、オランダと海上交通の覇を争い、17世紀後半には三角貿易と呼ばれる付加価値創出装置を作り上げていたことと無関係ではあるまい。これはアフリカの土侯に英国産の石鹸等、日用品を売り、引き換えに奴隷を得て これを米国で売却し 、代わりに綿花、砂糖を購入して本国に持ち帰り、これを加工して再びアフリカ等に輸出するという図式である 。
これにより17世紀後半、英国では日用品生産のための軽工業が急速に発展し、生活水準が上昇した。彼らは東インド会社がもたらす、インドの綿織物、茶など、彼らにとっては全く新しい商品を大量に消費し、「生活革命」と呼ばれるように、生活スタイルを一新させた 。
1648年、30年戦争が終結してウェストファリア条約が結ばれ、「主権国家」が誕生した。しかしこれは近代的国民国家の誕生というより、西欧の政治単位としては国家が唯一のものとして確立され、カトリック教会、王家などのプレーヤーは後景に退いたことを意味している 。
国王ではなく議会ないし首相が国の代表権を行使する、法人的性格を持った近代国民国家は、同時期の英国で真っ先に形成されていく。
「戦争マシンとしての国民国家」の成立
17世紀後半、英国は「戦争マシンとしての国民国家」体制を着々と整えていく。当時、海上交通をめぐるオランダとの覇権争いにはほぼ決着がついていて、フランスとの海外植民地争奪戦が最大の政策課題となっていた。
当時の政策決定過程、そこにおける議論、資本を運用する存在としてのジェントリーがどのように動いたか等について、筆者は未だつまびらかにしない。しかし17世紀英国で起きたことは、未曾有の金融・税制体制の整備であったことは確言できる。
1688年の名誉革命でオランダのオレンジ公を新たな国王として招いた英国に対しては、フランスと独立をかけて戦っていたオランダからその資本が大量に注ぎ込まれた。1694年には英国でイングランド銀行が設立されて国債を発行する体制が整い、1698年にはロンドン株式市場が開設されて内外の資本を集めることが可能になった。1717年にはポンドが金にペッグされ、対外信用を高めたのである。
英国経済は貿易に強く依存していたが、英国は19世紀の米連邦政府や現在のロシア政府と異なり、輸入関税にその歳入を大きく依存することはせず、取引税に歳入の多くを依存していた。スチュアート朝時代には税負担はGDPの3~4%であったが、名誉革命後のハノーヴァー朝時代には9%に達したと推定され、当時西欧で随一の高負担国であった。
18世紀前半、英国はフランスと数度にわたる植民地争奪戦争を行い、大きな市場を獲得していく。豊かな財政、膨張する行政需要を背景に公務員の数も膨れ上がる。英国の築いた財政力が軍事力 を強化し、植民地の拡大をもたらし、これが市場となって英国の富を更に拡大させるスパイラル、つまり国民国家・植民地・産業革命の三位一体が成立していくのである 。
18世紀英国では人口が増大し、農業生産も拡大していたが、いわゆる産業革命(綿織物の大量生産)は未だ始まっていなかった。18世紀後半の英国の主要輸出市場は北米であった。北米植民地からの税収は殆どなかった が、英国の輸出の20%、輸入の30%が北米植民地を相手とする貿易から得られていた。
英国はこれを、米国独立戦争のために失うのである。その打撃は甚大だったに違いない。現在の日本で言えば、対中貿易が突如失われたに等しいのである。そこで、意識的な転換が今度はインドを軸として行われた。英国、インド、中国を軸とした多角貿易が盛んになった。
インドは北米植民地と異なり、英国の全輸入量の40%分に相当するような税"home charge"を課され、しかも本来は綿織物の老舗であったのに英国製の粗悪な綿織物を大量に買わされるようになった 。「産業革命」は、この時に「発生」している。
綿織物を安く大量に生産することで利潤を上げようとする資本家達がいたのだろうが 、この北米大陸からインドへの対象シフト、綿織物工場建設をめぐる当時の周辺事情については、未だ適当な研究成果に遭遇していない。
なお1697年~1815年の間の英国の工業生産増加の半分は輸出に向けられていた。戦後、日本、ついで中国は輸出主導の経済発展を欧米から非難されることになるが、以前は英国自身が同様の発展モデルを採用していたことになる。
この間英国においては内閣制が整備され、首相職が1715年に成立し、政党政治も18世紀から始まっている 。英国は活力に満ちた民主主義国として欧州大陸諸国知識人の賞賛を受けた。
こうして、単一の法空間 、強力な財力と軍事力、警察、外交機関を備え、国王ではなく首相、議会を権力の頂点に据えた近代的国民国家は、英国で初めて成立し、現代の諸国家は多かれ少なかれ、意識的、無意識的にここに範を取っているのである。
フランス、オスマン・トルコの場合
税制の整備が遅れたフランスは、英国との戦争の費用を調達しようとして三部会を久しぶりに招集したところ、これに革命を起こされてしまう。フランスは、工業化では英国に遅れてはいなかったが、国家体制で大きく遅れていたのである。フランス大革命とそれに先立つ時代は、ルソーの社会契約論、「権利の請願」等、国家に対する個人の権利を確立したとされているが、国民国家の体制整備はナポレオンを待たねばならなかった。
ナポレオンは英国に追いつくため、国民国家としての体裁を強権的に整えた。彼はローマ法典をベース にナポレオン法典を作り上げ、大陸における成文法の伝統を形作った。
そして徴兵制を敷き、これに革命精神(自由、平等、博愛)、愛国心を植えつけることで、近代的国民国家の姿をほぼ完成させる。
この間東方においてはオスマン・トルコ帝国が次第に衰退していた。オスマン・トルコは17世紀初頭までは強大で、西欧にとってリアルな脅威であった。トルコのスルタンも、西欧を自分の潜在的な版図として意識し、そのための冠も持っていた。貴族ではなく、スルタン自らが選任したイェニチェリに軍・行政を委ね、地方には代官を置いていたオスマン・トルコは、西欧諸国の国王達にとっては絶対主義国家の模範のような存在であった。 西欧は、国民国家という一種の戦争マシンが動員する血(兵士)と汗(税金)の力で東方を圧倒し、植民地主義時代を築く。英国の力は頂点に達し、1846年から1932年にかけての自由貿易時代を可能とする。
ドイツの統一を実現したビスマルクは、社会保障という新しい要素を国民国家に持ち込んだ 。血と汗を国民から搾取するのが本来の機能であった国民国家に、国民に恩恵を与える社会保障が持ち込まれたのである。
現代では、戦争遂行のために国民の血と汗を搾り取る装置としての国民国家は後景に退き、社会保障という恩恵の部分のみが過大の関心を受けるに至っている。これは、国の権力基盤が大衆に広がってきたためであるが、どこでも国家の負担能力に限界があるという問題に突き当たっている。
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