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世界はこう変わる

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2014年6月23日

ユーラシアを理解するために 1

アフガニスタンやウクライナ情勢のせいで、「ユーラシア」という存在が前より話題になっている。
これを少し系統的に見ていきたい。

ユーラシア大陸は一つの塊として捉えるべし
ーーユーラシア大陸を一つに結び付ける「オリエント」

  ユーラシア大陸は東西に約9000キロで、平原が多い。古代から中世、その中央部にいた騎馬民族が行軍すれば、一日30キロ進んだとして4500キロ÷30キロ=150日、つまり半年で欧州や中国に到達できたのである。古代、スキタイ民族などは東西を交易・放牧・征服で結んでいたに違いなく、それゆえに中国、インダス、メソポタミヤ、エジプトの4大文明における青銅器、鉄器文明の出現が同時期なのであろう。

ユーラシアの東端にある中国、西端にある欧州は、純粋培養の孤絶した文明ではない。古代ギリシャ神話には周辺エジプトやシリア、トルコの神々が混淆しているし、中国諸王朝の中でいわゆる漢民族が建てたものは漢・宋・明等少数で、モンゴルの元朝は言うに及ばず、秦・隋・唐等、多くの王朝は西域の異民族の血が混淆した貴族、あるいは清のごとく北方異民族によって樹立されている。

この中で特徴的なことは、ユーラシア大陸の中央部に陣取る「オリエント」と呼ばれる地域の文明が、西では欧州、東では中国、南ではインドに影響を与えることによって、ユーラシア大陸の文明に一貫性を与えているということである。中央集権の絶対主義に近い政体を持っていたアケメネス朝ペルシャは、それより300年以上も後に成立した始皇帝の秦王朝に影響を与えている可能性がある。そして琵琶やバイオリンの如く、ペルシャ地域に発祥する楽器は多く、工芸品の意匠はモロッコからトルコ、シリア、エジプト、中東、イラン、中央アジア、インド北部、新疆地方(1526年、インドのムガール王朝を樹立したバーブル王子は、はるか北の中央アジア、現在のウズベキスタンから南下したモンゴル・トルコ系民族である)と、共通したところ大なのである。
今日、「イスラム地域」は後進性の代名詞のように思われているが、イスラムは実は7世紀に成立した新しい宗教であり、実際にはそれ以前の数千年にわたり栄えたオリエントの諸習俗・文化を集大成したものと言える。違和感と蔑視をもって接するべきものではない。
 
数々の誤解

  中央アジア、あるいは広くイスラム地域全般は「砂漠地帯」であるとの誤解がある。しかしイスラムの基盤となっているオリエントの文明はサウジ・アラビアのメッカ、ウズベキスタンのサマルカンド、シリアのダマスカス、イラクのバグダード等を中心とする都市文明である。メソポタミヤ、エジプト、インダス、黄河文明と同様、中央アジアの文明はアムダリヤ、シルダリヤの両大河に挟まれた広大で肥沃な耕地に咲いた農耕文明であり、砂漠の隊商が落としていった富はGDPの一部を占めるに過ぎなかったであろう。天山山脈から流れ出る川は、東では黄河、揚子江となって中国文明を生み、西ではアムダリヤ、シルダリヤとなってオリエント文明を育んだのである。
  もう一つの誤解は、「中央アジアはロシアの一部」、あるいは「中央アジアは古来からロシア人が住んでいる地域」というものである。しかしロシアは16世紀になってやっとウラル山脈を越えてアジアに踏み入った民族で、武力で中央アジアを制圧して植民地化したのは19世紀半ばのことである。それまでこの地域は、現地民族(ペルシャ、アラブ、トルコ、モンゴルその他遊牧民族等が並立、あるいは混血)が形成した都市国家が並立するか、それらを武力で束ねた帝国(ペルシャの諸王朝、モンゴル、チムール帝国等)が治めるところであった。近世に至るまで、スラブ人はオリエント地域の市場では奴隷として売られる存在であった。

  19世紀半ば以降、中央アジアはロシア帝国、次いでソ連の植民地的存在に落とされた。但しソ連政府は中央アジア諸国に資金をつぎ込み、都市インフラ、経済インフラを建設、価格補助金等をつぎ込んで住民の生活を支えるとともに、教育機関も整備した。しかし、1991年のソ連崩壊後は、目ぼしいポストは現地人エリートが独占し、中央アジアに残留したロシア人の多くは二次的存在に貶められている。従って、中央アジアはロシアの一部というのは、全く時代遅れの認識であり、中央アジアは今や現地民族(と言っても多民族社会であるが)の国家なのである。
  もう一つ、これは偏見と言ってもいいが、「イスラムは後れた文明」という意識が、西側世界では(ロシアでも然り)普遍的になっている。しかし中世までは、イスラムはキリスト教文明世界と互角、それどころか古代ギリシャ・ローマの学芸を引き継いで独自の文明を発達させていたのはイスラムなのである。イスラムのアッバース朝第7代のカリフ、マームーンは、西欧古典のアラブ語への翻訳を熱心に進めた。当時のイスラム世界では大学者が輩出し 、ギリシャ・ローマの古典を更に発展させていたのである。

従って15世紀、西欧でローマ・カトリック教会による精神的支配から脱出するため、ギリシャ・ローマ古典の研究が盛んになった(ルネッサンス)時は、このアラビア語に翻訳されていたギリシャ・ローマ古典が大きな役を果たした。当時イスラムのウマイヤ朝の首都であったイベリア半島コルドヴァでは、西欧各地から学者が集まって、ギリシャ・ローマ古典アラビア訳のラテン語訳を進めていた 。

オリエントに発達した天文学、数学、医学は、西欧近世の科学の基礎となっている。イスラム地域が現在のように後れた原因は、イスラム神秘主義が科学的思考を抑圧するようになったこと、同様の理由で活版印刷の普及が後れたこと、産業革命を自ら起こすことがなかったことによるのであろう。

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