中国は中だるみへ? 2013年1月の上海
23日~26日、6年ぶりに上海に行ってきた。中国人と話したわけでもなく、外部の者の目から見た印象だが、タクシーもガイドも一度も使わず、もっぱら足と公共交通機関で動いたので、少しは日常生活に近いところを見てきたと思う。
勢いがなくなった(?)上海
6年前の上海は勢いがあった。南京路のネオンの光の洪水の中を大股で歩いていくギャル、黄埔江を差し渡し10メートルほどの大液晶画面に広告をきらめかせて下っていく船、対岸の浦東の高層建築群、道路を埋める車の群れ、といったところである。当時はリーマン・ショックの前だったし、上海人自身が急激な変化に心浮き立つ思いをしていたのかもしれない (当時のことはhttp://www.japan-world-trends.com/ja/cat-1/post_86.phpでご覧いただきたい)。
(スモッグの上海)
今回は冬(東京と同じくらい寒く、しかもいつも灰色のスモッグがかかっている)だったせいか、或いは上海万博ももう終わり、江沢民の力も失われて上海にカネが回ってこなくなったせいか、停滞とまでは行かないが足踏み、あるいは良い言葉で言えば足場固めをしている感じがあった。考えてみれば今回は、道路の渋滞を目にしなかった。6年前泊まった場末の安ホテルはもうつぶれ、その前にあった胡同はきれいさっぱりなくなって高層ビルが林立していたが、都心部はあまり変わっていない。
中国はあるいは、外資を入れて貿易黒字を挙げ、そのカネをインフラ建設で膨らませることで急速な経済成長を演出したあと、今は社会全体の底上げをはかっている段階なのかもしれない。企業で起きている賃上げ闘争の続発がそれを物語る。それは良いことなのだが、当然外資の足は遠のいていくだろう。
ソ連もそうだったが、中国もある時点で外資を入れて生活を良くすると、また自分たちだけでやろうとしてうまくいかず、結局外資の残したものを食いつぶす――そのようなプロセスを繰り返しているところにあるのかもしれない。第一次大戦後、中国では外国からの投資が盛んになり、1926-36年は年率8,3%の成長を示現した。だが工場の4分の1は国営系で、1931年、日本は外国投資の51%を占めた。これと似たこと、本当の内的成長要因を欠いた体制のまま、外資を使って一段高い高原状態に移行し、今その成果を大衆が奪い合おうとしている――そのような状況でないのか?
(浦東夜景)
ソ連のDNA
中国の内的成長要因を低めるものは、1000年以上にもわたる絶対王政の間に染み付き、ソ連共産主義の影響でこびりついた官高民低の経済体制だ。人はあまり指摘しないが、中国のそこここには、「ソ連的」なるものが顔を出す。浦東の空港ターミナルも、日本的な現代風インテリアだが、壁の金属板の粗さ、金属製柵のそっけなさなどは、ソ連の地を見せている。そして通路のカーペットにはしわが寄っているのだ。
地下鉄は、まだ真新しいのにガラスを磨いていない。高層ビルの窓も磨かないことが多い。これは冗談の領域だが、中国女性は人前で大声で口論するのだが、それはロシアの女性の口論のやり方とそっくりで、おかしい。
もっとも、ソ連と違うところもあって、中国の街には「人民路」という名の道路が必ずあるが、考えてみるとロシアにはそういうのはない。どういうことだろう。
ホテルで、CCTVのロシア語放送があるのを発見した。ソ連とか中国とかの中央集権主義国家は、採算無視のプロパガンダで、いろいろな言語での国際放送をやる。費用対効果比は非常に低いので、日本は真似をする必要はない。だいたいCNNでさえ、普通の人は見たりしないものだ。金のある中国でも、ロシア語ニュースのトップは中国語放送と同じで、習近平総書記と山口公明党首の会談だった。つまり、ロシア向けの特別な編集はぜんぜんしていないということで、これでは見る者はいるまい。官僚のやっつけ仕事なのだ。
リニア・モーター・カー
6年前、ガイドに「ああ、あれはリニア・モーター。時速500キロで走ってます。空港から都心まで15分」と何気なく言われて驚いた、そのリニア・モーター・カーに空港から乗ってみた。切符を買うのは簡単だったし(片道50元。つまり700円程度。中国語で買ったので、英語や日本語で買えるかどうかは知らない)、自由席で空いていた。
インテリアはわりと粗末で、座席はほとんどベンチのようで、クッションはない。安全ベルトもない。空港から上海に行く時のスピードは300キロにしかならなかったが、滑るように無音で、というわけではない。けっこう音がして揺れる。周りに柵もないので、もし停電になった場合、浮力を失った列車はレールに接触し、方向を失って空中に飛び出すのではないのか? 上海から空港に帰る時は僅か1分間だったが時速430キロも出したので、これは本当に怖かった。6年間無事故。その代わり、座席のカバーももう6年間換えていないようによれよれだったので、部品もひょっとして?
因みに中国ではリニアでも地下鉄でも列車でも、長い乗り物に乗る時は、いつも駅の入り口で荷物をスキャンされ、セキュリティ・チェックをされる。以前、駅で随分テロがあったので。
街の情景から
6年前に比べると、上海は更に西側文化を身に着けてきた。エスカレーターでは右側に立ち、左側を急いでいる人に使わせるマナーが広がりつつある。これは今の日本では当たり前のようになっているが、実は今から15年ほど前だろうか、欧米にならって急速に普及したマナーなのである。そしてマクドナルドの店も、6年前に比べるとサービスの仕方もぎごちなさが取れたし(それでも、紅茶だけ注文するとセットを注文することを強要してくるなど、中国的なところもあるのだが)、床も清潔になった。
それでも、「さっぱり、きっちり」というところでは、日本の方が一段上を行く。中国では肉体労働の人たちに「さっぱり、きっちり」という文化がないことと、きちんとした仕事をすることで仲間、あるいは社会で認知してもらおうという意識がないためだろう。
南京路では15分ごと、「東方紅」のメロディーが流れる。ロンドンのビッグベンの真似なのか、チャイムにしてあるのだが、「東方紅」には文革の記憶が染みついているので、僕にはなんとなくサマルカンドあたりでコーランの詠唱、アザーンを聞いているような気がしてくる。6年前、これはなかった。
中国の交差点は危険に満ちている。どこから何が飛び出してくるかわかったものではない。自分の後ろの歩道から突然バイクが横をすり抜けていくかもしれないし、車道を逆方向から信号を無視して電動自転車が音もなく突っ込んでくるかもしれない。要するにルールはない。海を行く自転車、バイクというものがあるのなら、尖閣はもう今頃、中国のバイカー達が無意識に占拠するところとなっていただろう。
そしてアパートのベランダや窓からは、物干しざおが無数に道路上に突き出る。イタリアのナポリの場末と同じ。地味な色の洋服で満艦飾の風情。ただ下着を干していないところは、それなりのマナーがある。そして高級マンションではさすがに物干しざおは出ていない。
上海では所々、道などを尋ねることができる案内所があるのがいい。だが、「人民広場はどっち?」と僕が尋ねると、不意を襲われた係りの女の子は、饅頭を口いっぱい頬張ったまま喉をつまらせんばかり、手で口を押えると「あ、あっち」と答えた。
今回泊まったのは、憧れの「和平飯店」(数えてみたら、宿泊費の半分が朝食代だった)。租界時代の英米租界のハブだ。この1階にある有名なジャズ・バーでは、平均年齢70歳とかのバンドが懐メロ・ジャズをぶかぶか奏でている。白髪のミュージシャンたち。やや優等生的で、デカダンでレトロな雰囲気はない。アドリブもほとんどなく、リクエストで日本の演歌などばかりやっているので、これはジャズではない。ホテルのビジネス・センターはいやに不便なところにあって、インターネットもなかなかつながらない。
そして最後の日は、黄埔江対岸の浦東のショッピング・センターにあるファミレスで食事した。一皿500円以下で、ボリュームもあり、かつ清潔だ。浦東と言えば、6年前は新しい高層ビルがにょきにょき立つばかりで、人間の生活の匂いはしなかったものだが、今ではすっかり「街」になった。吹きさらしの歩道では、貧乏ミュージシャンがギターを奏で、カネを集めている。ショッピング・センターには、すごい数の「中産階級」(主として青年)が身ぎれいな格好でさんざめいている。ここらの生活スタイルは、日本と全然変わらない。ところが中国の場合、浦東的人種は絶対的少数で、「下層」の方もまた無数にいるのだ。
上海の地下鉄は新しくて清潔。加速は強烈で、立っているのが難しいほど。プラットホームにもドアがあるのはいいのだが、ドアの閉め方が唐突で、しかも強烈な勢いで閉まってくるので、背中に当たりでもしようものなら、あと1週間は打撲傷に苦しむ。車両の中は広くて、3列分の乗客が立っていられる。その真ん中の列の乗客のためにも吊り輪があって、そこらへんは本当によくできている。優先席もあり、「愛心専座」と書いてあった。家内が気がついたところでは、化粧した女性が少ないことが目立ったそうだ。
上海の地下鉄では、全線携帯電話ができるようだ。解像度の高いI-phoneで、テレビ放送を見ている女性がいた。サイネージ画面もあるが、日本より荒削りで、画面は光を反射して見にくい。そのニュースでは、「エジプトのデモで5人死亡」などとやっていて、サイネージ用の特別のコンテンツを流しているわけでもない。
関係ないが、上海がそうであるように、中国の大きな港都市は内陸部にあるものが多い。天津しかり、上海しかり、杭州、そして広州もそうなのだ。そしてそう言えば、リューベック、アントワープ、ハンブルクといった北ヨーロッパの港湾都市も、内陸に入ったところに多い。中国の場合、倭寇・海賊対策で、内陸に位置したものもあっただろう。
蘇州
上海の周辺は観光名所が多数ある。僕が一番好きなのは、日本人には「水郷」と呼ばれている、一連の水運商業都市だ。江南の豊富な物資を運河の網の目で集荷して、隋の煬帝達が作った大運河で開封とか北京とか北部の消費中心に出荷する生業をしていたのだろう。まるでベニスのように、今でも中世の面影を残しているばかりか、そこに今の生活が息づいているから素晴らしいのだ。
でも今回は、蘇州に行った。このあたりは三国時代の呉の国があったところ。日本での漢字の読み方は、「呉音」が基礎になっている(だからと言って、この「呉音」がこのあたりで本当に使われていたという証拠もないのだが)。そして、日本の中世に発達した庭園や書画の類は南宋、つまり杭州のあたりを中心とする王朝から伝わってきたもので、蘇州には中国の古い庭園が残る。だから、日本文化の源流の一つを蘇州で見てみたかったのだ。
蘇州には、上海駅から新幹線で行く。30分くらいしかかからない。切符を買うのは、リニア・モーター・カーよりは手こずった。と言うのは、外国人用の切符売り場は駅とは別の建物にあったから。
蘇州へ行く新幹線型「和諧号」は、揺れない。駅で観察したが、レールの継ぎ目がないようだ。1995年、上海から杭州まで列車で行ったことがある。当時既に、沿線は日本、米国、EUの旗がはためく真新しい工場がびっしりと建っていた。蘇州への沿線にも工場はまばらにあるが、杭州線沿線ほどではない。しかしスモッグは農村地帯までをおおっていた。
蘇州には失望した。細かい運河の網の目の中にあるベニスのような都市を想像していたが、ほこりっぽい現代都市でしかない。「庭園」も、日本庭園的なものもいくつかあるが、メンテが問題だ。庭園のスタイルについての記憶、ノウハウが残っていないのか、特に植栽がでたらめで、雑草がぼうぼうという感じ。そして、庭園を囲む建物が多すぎる。日本庭園のミニマリズム、自然との合一といった要素はなく、ヨーロッパ的に自然を我が物として上からの目線で楽しむのだ。「茶室」と言われるものは、日本とはまったく異なり、むしろ西欧のパビリオンのように豪勢さを前面に出す。あっけらかんと現世的で、哲学的ではない。日本の室町時代以降の庭園よりも、平安時代の平等院庭園の方に近いとでも言うか。
蘇州で面白かったのは、太平天国のこと。名園とされる明代の「拙政園」には蘇州博物館が接していて、その蘇州博物館を出ると、「忠王府」という建物を出たことになる。この忠王府は太平天国の有力将軍李秀成が本拠としたところなのだが、「忠王府」という石碑や看板が整備され、旧跡として整備されている。時の政府に反乱した勢力が、歴史から抹殺されるどころか、むしろ称揚されている。これは、太平天国当時の清朝が異民族支配の王朝だったからなのか、それとも太平天国は農民反乱と位置付けられていて、これが同じく農民を動員して権力を確立した中国共産党と似た存在だったからなのか。
街の中心から駅まではずいぶん離れているので、夫婦で人力車に乗った。15分ほどかかったのだが、その間立体交差を上がったり下がったりして、けっこう苦労していたので、50元と言われたが70元払った。中国にもインドにも、こうした人力車こぎ、つまり自転車こぎは無数にいる。その「練習量」たるやすさまじいもので、彼らが自転車レースのツール・ド・フランスなどに出場すれば、上位独占間違いなしだ。ツール・ド・フランスで連続優勝したアメリカ人アームストロングがドーピングをやっていたことを告白してニュースになっているが、中国人、インド人を参加させれば、ドーピングなど必要ないことを簡単に証明してくれるだろう。
日本
上海の観光名所「豫園」の脇には「上海老街」という古い住宅街がある。いわゆる胡同で、昔の東京のように、1階建て、2階建ての粗末な長屋が延々と続き、その間を狭い小路がくねくねと縫っていくのだ。そこを歩いてふと角を曲がると、壁に大きな絵が現れた。海と島、「小日本。釣魚島から出ていけ!」と中国語で書いてある。日本人観光客狙いなら、日本語で尖閣諸島と書かないとわかってもらえないと思う。
新聞の売店を見ると、「参考消息」紙が「尖閣の上空飛行権は日本に属する」という安倍総理の発言をけしからんと批判している。そして「科技消息」は、秘密基地から日本を攻撃する作戦が練られていると報じている。だが表紙の戦闘機は米軍のものだ。日本の新聞にも中国について同じような安手の報道をするものもあるので、目くじらを立てることもない。中国も日本も国民の大多数は生活するのに精いっぱいで、この手の記事にはいちいち反応しない。
それに、1月25日、26日とも、中国の中央電視台テレビ・ニュースでは、山口公明党首と習近平党共産党総書記の会談がトップ・ニュースとして繰り返し流されていた。そして安倍総理の親書が手渡しされたことが、総理の署名大写しとともに、強調されていた。つまり日中両国は関係修復に向けて布石を打ち始め、中国政府はそのことを国民に徹底しようとしているのだ。
上海の一角には、まるでヨーロッパのような舗石の街がある。そこにはキリスト教会、税関、リセなど、租界のあとが息づく。戦前の上海はロンドン、N.Y.に次ぐ金融都市だった。今でも黄埔江に面して立つ当時の銀行の建物に入ってみると、まるで東照宮と中尊寺を合わせて石造りにし、それを20倍の面積に拡大したような、豪勢なインテリアがそのまま残っている。
(銀行インテリア)
この欧米の利権の根城を、日本軍は爆撃したのだ。彼らが受けたショックと、彼らが日本に対して感じた憎しみは想像できる。ばかなことをしたものだ。
価格
今回、調べた価格水準は次の通りだ。1元は約15円。少し西側資本の息のかかったものになると、もう西側と水準はほぼ同じになりつつある。ただ、一般の食堂で食事をすれば、食費は非常に切りつめることがまだできる。
麻婆豆腐18元。
ビッグマック・ミール 27元。
マクドナルドでの茶は5元。
吉野家の牛丼 17元。
地下鉄3元から距離に応じて。
ホテルの朝食 250元 (ホテル代の半分が朝食代。しかしここで食べれば一日もつ)。
ユニクロ 日本よりやや高い。
サングラス:85元
グッチ:5000元
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