Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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世界はこう変わる

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2012年8月 8日

8年前の中国を思い出して

このブログを立ち上げたのは2005年の秋だった。その1年前に僕は上海、北京に出張して、以下の随筆を書いていた。これから時々、面白い文章を掘り出して、ここに掲載することにする。以下は、8年前の中国であることをお忘れなく。ただ多くのことは今とそれほど変わっていない。

            中国エクスプレス
      ーーーまたは、日本をめぐるパラダイム・シフト
2004.12.19

                             
新しい、もっと大きな日本の出現

 僕の乗った特急列車は蘇州の野を突っ走る。時速百五十キロで揺れもしない。三十年前の中国に僕が初めて来た時のあの鈍重なソ連製の車輌、人民服はもう忘却の彼方。車内は日本と同じく二人づつ向かい合い、窓際には小さなテーブルが突き出ている。列車は中国人の行楽客、それもほとんどが中年の陽気な女性達に占領されて、にぎやかなことこの上ない。隣の友人によりかかったり、新しい携帯電話の使い方を自慢げに説明したり、向かいの席に足を投げ出してミカンを食べたり、女性天下だ。まばらな男どもはいずれも地味な服装で、はしゃぐ女どもに気圧されたかのように黙りこくる。窓際では若い男があまりの騒がしさに、テーブルに両肘ついて耳を押さえ、英語の勉強に余念がない。僕のガイドは「毛沢東が女を甘やかしすぎたからだ」と言うと、更に言い捨てた。「うちの娘と来たら、何か言うとすぐ『お父さん、もう古いのよ。言うことが古いんだから』だ。もうええ。どうなってもわしは知らん」。その娘君、日本のアニメのDVDを日本語のまま見て、なんとサシミが好物なのだそうだ。

  「中国では、都市は発展したよ。でも格差の激しい社会で、農村はまだ貧しい」と人は言う。だから僕も「貧しい農村」を見たくて、汽車に乗った。だが、江蘇省のあたりは中国でも最も豊かで、沿線には農村どころか工場や市街地が三百キロにわたって延々と続くのだ。たまに畑がまばらに見えると、「ああ、あれが農家です。」とガイドが指さす。一般の家にまじって一際高く、一際大きな構えの三階建て、四階建ての建物が「農家」なのだ。いずれも、真ん中に中国風の小さな塔が作りつけてある。

  日本人は、室町時代に発酵した日本文化は世界に稀な独特なもので、何も色を塗らない空間やいびつな形の美を愛でることができるのは日本人だけだと教えられてきた。だが、「わび、さびの源流は中国にある」と言ったら、怒られるだろうか? 南宋の士大夫の文化こそ、わび、さびの精神で、彼らの水墨画は淡色にすべてのことを言い尽くし、同時代西欧の肖像画と比べれば、その差は歴然たるものだ。だから僕は、ルーツ探しのつもりで上海から汽車に乗り、その昔南宋の首都だったという杭州をめざしている。
 だが聞けば、都のあとは畑に埋まり、いにしえを偲ぶよすがもないという。東京郊外の大きな駅といった風情の杭州駅からタクシーに乗ると、セメントと鉄の塊、高層ビルの立ち並ぶ間をぬけて四車線のトンネルに入る。「天井の上は西湖です」と、こともなげにガイドが言った。白楽天、蘇東坡の詠ったあの西湖も、今では箱根なみに便利になった。

 九年ぶりにやってきた中国。九年前でももう十分、その発展の偉容に圧倒されて帰ったものだが、今回はまた先に行っていた。まるで王朝でも代わったかのように、前代の建物は惜しげもなく壊され、味気のないセメントで街は固められていく。アメリカや日本以上に脇目もふらず、彼らは前へ前へとばかり進む。

 僕が初めて中国にやってきたのは一九七七年の頃、毛沢東の死の直後、「四人組」が逮捕された後だった。その時は、東南アジア、中国、モンゴル、ソ連と回ったが、工場や団地の集積度ではソ連に次ぐ水準で、国の偉容は十分感じさせた。だがカメラを向ければこちらにとびかかってくる風情の人民服姿の青年達、不潔きわまりない公衆便所、自転車、馬車、トラクター、そしてソ連製のボルガやジープやトラックが無秩序に走っていく街道を、むやみやたら警笛を鳴らしつつ走っていった長城への道。すべては西側とは別世界で、後進性にソ連の命令体質、権威主義を重ね合わせた奇妙な混合物を成していた・・・

 成田空港、上海行き便のゲート。白人の国へ行くのならもう少しすまして振る舞う日本人も、アジアへ行くとなると地を見せる。「ビジネス・クラスのお客様から先にご搭乗下さい」のアナウンスもものかわ、エコノミー客が中国人とともにゲートへとなだれ込む。そして着席前の機内は、アジアの露天市のような雑踏の中、ここだ、いやあそこだ、誰々さんどうしたという女性の大声ーーーだいたいが日本人ーーーで満たされる。無秩序だ。だがこれは、腕力と金が支配するロシアの男性的無秩序とは違って、女性優位の無秩序だ。今ある世界の中で生活欲を貪欲に満たしているだけで、新しい枠組みを作ることなど考えない。アジアへの回帰とは、そうした世界にどっぷり浸かることを意味しているのか。

 上海浦東国際空港の偉容は格別で、巨大の一語だ。鉄柱の列が大地から斜めにせり出し、見る者にのしかかりながら夜の地平の彼方へと延々と続く。鉄柱の間はガラス張りになっていて、下りた乗客はその横を果てしなく歩かされるが、その通路の終わりは見えない。いい加減ショックを受けて車に乗れば、ハイウェーの横の高架を指さし、ガイドが「ああ、あれはリニアモーター・カーです。時速五百キロで市内まで十五分で着きます。」とこともなげに言う。いったい僕はタイム・トンネルをくぐり抜け、三十年先の中国にやってきたのか?

 土地がすべて国有・公有の中国では、開発や再開発はやりやすい。ほぼ百年間の「使用権」を国から得た者達は、一戸建ての家を建てていては引き合わないから、高層オフィス、高層マンションを作りたがる。だからろくな道路も庭もなく、小ぶりの一戸建てが雑然と広がる東京に比べて、中国の都市は高層化が著しい。高層ビルが発展の印ということならば、北京、上海など、もう東京の先を行っている。中国人もこれが発展,進歩なのだと思っていて、一昔前の日本人同様、新しいところばかり外国人に見せたがる。「あれはショッピング・センター。あれは何何社の本社ビル」と、何気なく言っては相手の反応をひそかに窺う。驚いて欲しいのだ。だが、高層ビルのいくつかは、銀行からコネで低利融資を引き出した中国人が建設しては、高値で売り抜くあくどい商売の対象になっている。中国のGNPは強力な製造業に支えられているが、こうしたバブルも実はかなりの部分を占めているのだ。

 古びたバー。「ジ・オールド・ジャズ・バンド」が租界時代の昔さながら、「枯葉」をブルースで奏でる。フランス租界では警察が麻薬の商売をやっていたんです、と中国人が僕に言う。ピアノ、トランペット、サックスは、ジンタのようなドラムに乗って、「魔都上海」のデカダンを紡ぎ出す。
 ここは上海の和平賓館。戦前はイギリス租界のランドマーク。賓館は夜の上海に黒々と横たわる黄浦江に面していて、対岸には東洋一のテレビ塔の中程で無数の星をちりばめたレストランがゆっくりと回転している。AURORAという大きな赤いネオンサイン、リコー、エプソン、フジフィルム、NETと様々な意匠のネオンに混じって「連聯集団」とあるのは、IBMパソコンの買収で今をときめく中国企業。この浦東、九年前僕がやってきた時には、だだっ広い空き地に人気のない高層ビルと工場がまばらに立っていただけだった。

 目を転ずれば、そこは南京東路の雑踏とネオンの洪水。浮き浮きとしたその雰囲気に、誰でも夜の街にあくがれ出る。交通警官の吹く笛の音、時刻を告げるチャイムの音。雑踏の中、アイスクリームかと見まがう焼きとうもろこしにかぶりつきながら、大股にやってくる小ギャル。雰囲気は、池袋のあたりと変わらない。ふと見れば、日本語で「ラーメン」の看板、近くには長崎チャンポン「与作」とある。そのまた近くには堂々と「ADULT SHOP 成人用品」とあり、五百メートルも歩くとあのユニクロの店がある。ユニクロはこのあたりで作っているから、店も日本より大規模だ。

 総中流社会、消費社会が始まった。アベック、グループで歩く若者達、家族連れ、いずれも嬉しそうな顔、顔、顔。皆、楽しくて幸せで仕方ない、といった風情でネオンの洪水の中を歩いていく。だが全体の感じは、根無し草でがさつなマンハッタンのよう。上海市民一人当たりの所得は年間五千ドルを超え、当局は産業構成の高度化、環境対策、サービス業の発展を考えるようになった。日本の隣に、大きな新しい日本が出現したのだ。伝統などは振り払い、生活が日々良くなっていく楽しさに我を忘れた総中流社会が。

改革と「反日」と

  杭州エクスプレスはひたすら走る。と、大柄な女性が直径三十センチはあろうというやかんを乗客の頭のあたりをぶらぶらさせて、熱い茶を注ぎにやってくる。列車が揺れれば乗客に大やけどを負わせるだろう。アメリカでコーヒーをこぼして訴えられたマクドナルドどころの騒ぎではない。列車が杭州に近づくと、「ラ・パロマ」や「黒いオルフェ」のメロディーが、アロハ調のスチール・ギターに乗ってスピーカーから流れ出す。携帯電話の着メロはモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークやトルコ行進曲で、いつも中華料理のにおいとともに思い出す、あの懐かしい中国メロディーはもう聞こえてこない。

 杭州の西湖のほとりには、南宋の英雄、岳飛の廟がある。当時三十代だったこの将軍は、南へと攻め寄せてくる金軍への徹底的抗戦を唱え、皇帝の側近の讒言にあって刑死したのだ。彼の墓の真向かいの壁際に、彼を讒言したという大臣の像が後手に縛られ、妻と共に正座して頭を垂れる。これは、中国人は民族の敵を永劫に忘れない、だから日本人に対してもあんなに反日なのだ、ということの証左としてわが日本で喧伝されていて、実際、最近に至るまで見物人はこの大臣夫妻の像に唾をはきかけていく習わしだった。この像はさぞ、中国人の何代にもわたるDNAの宝庫であることだろう。だが、そこにはもう「文明参観」(礼儀正しく参観しましょう)という札が貼ってあり、日本のように旗を持った女性のガイドに率いられたツアーの客は、もう唾を吐いたりしない。ツァーのおばさんが、大臣の隣に立ってしかめ面をまねてポーズを取ると、自分で笑い転げた。

 上海から北京へは千二百キロある。そうしてみると、中国の中心部は日本を東西南北に広げたようなもので、それほどたいした面積でもない。「中国は人口大国であるだけです」、「中国経済はものを組み立てているだけです」と謙遜して自ら言う者もいた。確かに中国の発展も今のところ薄っぺたい。人を驚かす上海の浦東も、この頃は香港のように狭苦しくなってきた。ビルの周囲の空き地を広く取っていないからだろう。


 飛行機は北京に着く。機内のBGMは日本の演歌調。だが、十一月の北京空港はモスクワのシェレメチェヴォ空港に似て、寒々としていて暗い。上海を商都の賑わいとするなら、北京は政治都市の鋼のような冷たい権威を漂わす。この街は元々モンゴルが世界支配のために作ったもので、そのことは中国人はあまり知らないし言われたくもないのだが、今では中南海と呼ばれる人工湖から、大運河を通って遠くインド洋、アラビアにまで通じていたのだ。商権を握っていたのは、ペルシャ人、ソグド人だと言う。思えば、ユーラシアの超大国、中国、ロシア二つながらに、モンゴル帝国の継承者なのだ。受動的な農耕民族に加えられた、遊牧民族の荒々しい専制的なDNA。

 中国の紙幣にはどれも毛沢東の肖像があるが、金額はチベット語でも書いてある。五十元紙幣の裏の図柄は、チベットのポタラ宮殿なのだ。民族の問題は、中国の一部を除いてもうその先鋭さは感じられない。満州族でもその言葉ができなかったり、「子供の頃見た映画で満州族の弁髪は嫌になったので、『漢族』の籍を選びました。でも妹は、大学入学に有利なのだと言って、満州族の籍を選んだんです」とこともなげに言う若者達がいたりする。

 北京の地下鉄では、英語のアナウンスがある。SARS騒ぎ以来、車両の窓には「今日消毒しました」というステッカーが貼ってある。そして、改革は着実に進んでいる。普通の市民が簡単にパスポートを手に入れることができるようになった。申請すると郵送してくるというから日本よりも便利だし、賄賂もからんでいないようだ。銀行の不良債権の元凶とされている国営企業も、合併やら分割で競争性を増し、政府からの指令もめっきり減った。但し、企業に代わって年金や医療の負担を負わされた地方自治体はたまらず、年金の遅配、減額は諸方で起きて、昨今続く「暴動」の背景になっている。

 我々日本人はつい一昔前まで休暇もなしに働いたものだが、中国人はもう五月、十月、旧正月に一週間づつ休み、広い国の中を大移動する。北京大学の学生は企業をスポンサーに引き込んで、日本、韓国の学生と一堂に集まっては、ビジネス・モデルの国際コンペをするようになっている。学生の公務員志向は強いが、ヴェンチャーの世界へ当たり前のようにして乗り出す学生もまた数多い。経済が右肩上がりであるために、改革に伴う摩擦は大きな社会不安を起こさない。

 こう言うと、「じゃあ、共産党一党独裁はどうなんだ? 民主化は進んでいるのか?」とかさにかかって聞いてくる日本人がいる。だが、マルクシズムをふりかざして市民の自由を抑圧するのが共産党の商売だと思ったら、それは間違いだ。ソ連型社会における共産党の役割は多岐に渡り、それは何よりも経済の運営に当たっていたのだ。ソ連時代の文書を見れば、モスクワの地区党委が野菜の流通や水道の修理まで差配していたのがわかるし、地方でも党委が作物の播種時期、面積、種類まで決めていたのだ。地方の役所は地方しか見ていないから、地元で各省庁所属組織をとりまとめられるのは党組織ぐらいしかなかったのだろう。党組織がペレストロイカに抵抗した時、ゴルバチョフは党組織が経済運営に携わるのを禁じたが、マフィアが跳梁し出したのはちょうどその頃からである。

 つまり、党組織の急速な解体は社会を不安定化させかねない。そして、民営化が始まった社会では、野党は単なる利権獲得の道具へと化しやすい。エリツィン時代、大統領と議会が延々と争ったのも、民営化の利益への関与を求めてのことだった。民主化のための最良の手段は経済発展であり、それは韓国やチリの例から明らかだ。今はまだ上の鼻息をうかがって発言している中国の政治学者も、自由に物を言えるようになるまであとほんの一息だ。

 中国というと、人はすぐ暴動の危険性とか分裂の可能性を論じ出す。だが、今の中国を歩いていると、その臭いすらしない。六十年代末、過激派の学生が新宿駅を占拠した時、世界は日本が分裂する危険性を論じただろうか? 日本があの「二重構造」を克服し、農村からの出稼ぎも少なくなり、一億総中流化社会を実現したのは、つい二、三十年前の話だ。してみれば、現在の中国人の生活実感は日本での六十年代頃に相当するのかもしれない。

 この数年で大学生の数は、百五十万人から三百五十万人に増やされた。すべての卒業生がいい職業に就けるわけでないから、「教育のある不満層」が大量に現れた。ヴェンチャーをやるような若者も、年金、医療は民間の保険に頼っているから、将来への不安は強い。彼らは、自分の意見をインターネットで広める。そのかなりの部分は政府を批判するもので、対日政策についてはその「弱腰」をなじるのだ。インターネットのサイトには外国企業も資金を出すから、北京では欧米企業も反日をあおっているのだと考える日本人がいる。とまれ、中国には世論というものが現れて、暴動にもつながら大衆レベルの不満と合わせ、政府の手に少々余るものになってきた。もう徴兵制はないのだが、駅の売店では中米、日中の軍事力を比較した雑誌などが売られている。

 だが、「反日主義」が中国人の生活に染みわたっているわけではない。街を歩いている日本人が殴られるわけでもない。教科書に戦争のことが書いてあるからと言って、生徒が今の日本人を当時の日本兵になぞらえて考えるわけでもない。日本企業が多い上海では、親日の方が圧倒的で、最近の「政冷」が経済関係まで冷ましてしまうことを極度に警戒している。そして、明日の方が今よりいい暮らしのできる社会では、昔のことをいつも考えているだけの時間はない。「なんで日本では、『中国人は反日だ』、ということにされてしまったのでしょう?」、「日本の新聞は右へならえで、デスクが『あそこが書いているのにウチはなぜ書かないんだ!』と叫ぶから、反日についての記事ばかり出るんでしょう」と、ある中国人知識人が言った。

 二十年前、韓国に行ったことがある。あの頃の韓国の反日感情はひどくて、韓国外務省の日本担当は関係改善を望みながらも、それを口に出して言える状況ではなかった。それならば、日中関係も何年後には劇的な改善を遂げて不思議ではない。ましてや、現在の日中関係は、一日一万人もの日本人が中国に飛び十万人もの中国人が日本語を勉強しているように、日韓関係より更に緊密なのだから。
但し日本の総理が中国にやってくれば、七十年代田中総理が東南アジア訪問で遭遇した日本商品、日本企業排撃の運動がゲリラ的に燃えさかるくらいのことはあるかもしれない。だが、それも一時の麻疹のようなもので終わるだろう。

 日本文化は、驚くほど受け入れられている。書店では竹取物語や平家物語にまじって村上春樹選集、大江健三郎選集、吉川英治の宮本武蔵、「世界の中心で愛を叫ぶ」、そして実に「失楽園」までが並ぶ。もっともその日本文化も、英語にはとてもかなわない。英語は若い中国人にとって出世へのパスポートであるらしく、学生達の英語の水準は日本の学生よりはるか先に行ってしまったという・・・

 中国、我々にとっての未知の国。様々な人々がごった煮になった社会は、新しいものを作ろうとする気概と欲望で蒸れかえる。弁当のような昼食を前にして、「ではこれから」と日本語で言うやガバッとその上に伏せ、客の僕としゃべりもせず猛然と平らげだした教授達。文革時代のトラウマがまだしみこんでいるのだろう。上海から北京への機中、のべつまくなし鼻毛を抜いては、それを僕の足との隙間にはじき出していた若い男。日本人女性と結婚し、日本、中国半年づつの生活を繰り返す若い教授・・・・・

 杭州の山を分け入ったところに名刹、霊隠寺はある。昔インドから高僧がやってきて仏像を作ったと言うが、ここの仏像はヒンズーの神々に似て現世的だ。鐘は日本と全く同じだが、「ほら、あれが弥勒菩薩です」と言われて見れば、布袋(ほてい)としか見えない福々しい像が、突き出た腹をさらし笑顔で座っている。弥勒菩薩と言えば、京都の広隆寺の国宝のように、その高い精神性で衆生を救う神かと思っていたが、ここでは「福の神布袋」に身をやつして現れる。してみると、中国人にとっての救いとは、あくまで現世的なものなのか? 禅仏教の精神性を作り上げたのは、中国人ではなかったのか?
 
 彼らはお経をサンスクリットではなく中国語で誦み、その調子は日本の僧侶の読経のように陰々滅々とはしていない。傍らを、スチュワーデスが使うあのモダンなキャリーケースを引いて、若い僧、二,三人が僧坊に帰っていく。研修旅行にでも行っていたのか。だが公衆便所に行くと、三十年前に比べて天地の差の清潔さだが、なぜか目の前で中年男がズボンを下げる。見れば大便所には扉どころか仕切りがない。

 中国よ、お前はそも何者なのか? 漬け物の臭い、大声の中国語、便所の臭気、携帯電話の着メロ、セメントの洪水、我々は結局このあらゆる猥雑さとともに、中国を嚥みこまなければならないのだ。この伝統を顧みず、常に現世に生きている国を。中国は、要するに大きな口だ。パクパク口をあけ、本能そのままで生きている。ありとあらゆるものを嚥み下しながら。僕は、こんな思いを抱いた。

 夕暮れの天安門広場に灯りがつく。日本の満州支配ゆかりの南満州鉄道の終点、旧北京駅はここにあって、そのグレイ色の建物は今「老車駅商城」という看板の下、セブン・イレブンやインターネット・カフェの入ったショッピング・センターになっている。その裏に、線路はもうない。

 中国は、戦後も日本のすぐ横にあったはずだが、我々の大多数には長らく無縁で得体の知れない巨大な巨大な闇だった。「今まで日本人にとって中国は存在していないも同然だったのが、『ある日ドアを開けたら巨人が立っていた』という感じでしょう」とは、ある中国少壮エコノミストが僕に言った言葉だ。我々は、この巨象をよってたかって撫で始めた。

 日本に帰る北京空港のうす寒いターミナルで、日本人はどこか元気がない。「中国人は英語が意外とわからないんですね」などと言いながら、簡単なことも聞きに行こうとしない。「俺が見たものはいったい何だったんだろう? ひょっとして、あれは俺たちの将来を飲み下す龍だったんじゃなかろうか」という本能的な懸念がその顔に滲み出ていた。

パラダイム・シフトーーー米中の狭間で

 大陸移動にも等しい大変化がやってくる。ヴァスコ・ダ・ガマやコロンブスの大航海時代以来の白人植民地主義は、その真の終末に近づいている。我々は変に有頂天になることなしに、また過度に悲観的になることなしに、アジア、アメリカ、ヨーロッパの狭間での日本の居場所、その安全保障と生活保持の方向を考えて行かねばならない。

 パラダイムは変わりつつある。その中ではアメリカも、パレスチナ問題を放置したままアメリカ本土安全確保の負担を世界中に求めるやり方の費用対効果比を、真剣に検討することになるだろう。日米の安保関係も、これまでの延長線上で考えられるべきではない。さりとてそれは、台頭する中国と米国の間で日本が風見鶏になっていくということでもない。

 それは、アジアのEU,アジアの集団安全保障機構をアメリカの参加も得て作り、EUにおけるドイツの如く、中国をポジティブな勢力として取り込んで不安定化勢力にさせないことを意味している。イラクへの自衛隊派遣にもかかわらず日本の地位向上のために真剣な動きも見せない国連安全保障理事会にこだわっているより、足下のアジアで確固たる地位を確保する方策を考えていく努力も始めなければならない。

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