ユーラシア情勢バロメーター(7-10月のロシア)
ユーラシア情勢バロメーター 2012,10,30
ロシア情勢 7月―10月を中心に
ソ連型統制モデルへの回帰と、再びやってきた心地よい停滞
1991年ソ連が崩壊し、新生のロシアが急速な経済自由化政策を取り始めた時、自分の恩師、佐藤経明教授などはこれを危惧し、資本、経営スキルなど市場経済のためのインフラが欠如しているロシアでは、ソ連型の国営経済を続け、外資導入で活力をつけていくのが最も現実的ではないかとの見解を表明していた。
ロシアは1990年代はエリツィンによる「自由化」と利権の入れ替え、そしてその後の混乱収拾に明け暮れ、2000年代はプーチンの下に秩序を回復、原油価格の高騰に助けられてGDPが5倍にもなる僥倖の経済成長を遂げた。そして今はまさにプーチン新政権の下、佐藤経明教授の処方箋――国家独占経済に外資を載せる――の総仕上げに入っている。これは基本的には大衆に石油収入を配分する体制なので、自由を欲する者達は安定を求める大衆の犠牲になって、規格外として排除され、社会は統制色を強める。
これは、1970年代のブレジネフ政権最盛期を思わせる。当時もエネルギー危機の結果としての原油価格高騰に助けられ、経済改革は一切することなしに、外国の先進機械設備を大量に輸入することで消費財生産を維持していた。食品など物資はかなり出回っていたが、反体制派は精神病院に入れられるか、外国に追放され、国内の精神生活はすっかり停滞した。今回も政府批判勢力は自ら尻すぼみとなっただけでなく、指導者達は当局から個別に撃破され、9月15日モスクワで開かれた集会も小規模で終わった。
こういう中で8月24日Interfaxが伝えた中立系世論調査機関Levadaの調査結果によると、国民の49%はプーチンに今期限りで退任してほしいと考えているが、現在の大統領としてのプーチンには63%の支持を与えている。政府予算に所得を依存する者の多いロシアでは、現職政治家への支持率は高くなりがちである。
また、メドベジェフ大統領時代はプーチン首相とのタンデム(連結)政権と言われたが、プーチン新大統領の時代にタンデムと言う者はもはやいない。メドベジェフが逸脱したことを言うたびに、プーチンが直ちにこれを抑え込む発言を公にすることも多く、「タンデム」はもはや過去のものとなった。8月22日付コメルサント紙は、国営企業の人事権も首相府から大統領府へ戻った、その対象は対外貿易銀行、道路公団、オリンピック委員会、クルチャトフ研究所、タス通信、ロステレコム電話会社等である、と報じている。
また、プーチンに近いドイツの専門家Rahrは9月中旬、「シロヴィキが戻ってきた。彼らは、メドベジェフが中産階級を覚醒させてしまったことを許せない。安穏の中に眠らせておいたものを」と論評している(9月18日付Valdaiclub)。
こうして統制色が強くなった社会を、外資を接ぎ木することで発展させることができるかどうか。プーチンはロシアの鄧小平になれるかどうか、孤独な実験に歩み出そうとしている。彼には、鄧小平の持っていた共産党という強力な行政手段はない。あるのは、無気力で腐敗した官僚機構だけである。そしてロシアの主要な貿易相手であるEUの不況を受けて、ロシアの経済成長率も低迷を続けている。
19世紀末から20世紀初頭に書かれたチェーホフの戯曲は、帝政の行き詰まりの中でのインテリ階層の無力な生活を描いたものである。この前向きのメッセージがなく、方向感がない社会が現代に蘇っている。統制社会・国営経済の中で能力と抱負を実現することのできないインテリ達は、外国移住を考えることが多くなっており、中には革命を口走る者さえいる。
しかしロシアの労働力人口の3分の1は政府からの給料で生きているのであり、中産階級の多くは体制に抗議の声を上げることはない。こうしてゆるい統制が看過されている社会で、与党「統一」に結集した保守的エリートは、大学学部長のレベルに至るまで、「良いポスト」に侵食して、社会の反感をますます買っている。
10月には大統領府に新しい社会企画部が設けられ、愛国主義の涵養に乗り出すことになった。「米国人が国旗に敬意を示し、国歌を進んで歌うような愛国心に見ならいたい」ということを当局は言っているが、米国人の愛国心は上から強制されたものではないこと、何とか生活していくことができ、権利が保証されていることに対する評価が米国民の愛国心の基礎をなしていることを、ロシアの当局は理解できないらしい。
プーチンが新たに大統領に就任して半年、世界は米国大統領選挙、中国共産党党大会の結果待ちで、ロシアの外交も軸が定まらない。対米、対中関係という座標軸をしっかり描けないからである。経済的には最大の貿易相手であるEUの不況からエネルギー等輸出額も減少し、ロシアをしてアジアに目を向けさせている。しかしロシアは、中国に過度の依存をすることは好まないので、アジア重視と言ってもその効果は出にくい。但し日中関係が尖閣をめぐって悪化しているため、日本との関係を進める好機ではある。
上層部の「活断層」
(1)大統領府、首相府、各省庁の間では、新政権発足後の縄張りの仕分けがまだ終わっていない。同じ分野を所掌する者の間では、権限・政策抗争も起きていて、これがロシア内政の活断層のようになっている。主だったものは、メドベジェフ首相とドヴォルコヴィッチ副首相を一方に、他方にセーチン前副首相を置いた、エネルギー部門への支配権をめぐる対立、内政におけるソ連的統制復帰を指揮するボロージン大統領府副長官と、彼に以前から個人的・政策的に対立するスルコフ首相府官房長、そしてメドベジェフ系と目されるチャイカ検事総長と、プーチン系と目されるバストルイキン捜査委員会(米国のFBIに相当)委員長の間の権限争いがある。
他方、このような対立が表面化しても、イワノフ大統領府長官、シュヴァーロフ第一副首相が動く形跡がないのは、若干奇異である。
(2)エネルギー分野での権限闘争とセーチンの勝利
プーチンの側近、セーチン前副首相は、プーチン新政権では政府のポストからははじき出されて国営石油企業ロスネフチの会長となっている。これに乗じて6月、首相府のドヴォルコヴィチ副首相がエネルギー業界を糾合した会合を開こうとしたところ、セーチンが抵抗し、後者はプーチン大統領を長とする「エネルギー開発・環境問題委員会」を急遽形成し、自分はその事務局長に収まった。
このセーチンと首相府の間の綱引きは10月、セーチンの勝利で当面のけりがついた。と言うのは、セーチンが策していたチュメニ石油社の買収等、エネルギー業界の国営化、集約化を妨げるべく、首相府は2013年度予算歳入不足分をロスネフテガスの自己留保没収で穴埋めしようとしたのが果たせず、10月22日にはロスネフチがチュメニ石油の買収を発表してガスプロムをしのぐエネルギー国家独占企業となった。そして翌23日にはプーチン大統領の下、横にセーチン「事務局長」を従えて第2回「エネルギー開発・環境問題委員会」が開かれて、居並ぶドヴォルコヴィチ副首相等エネルギー問題担当者は「これからのエネルギー政策」について指示を聞かされる羽目となったのである。メドベジェフ首相は、この委員会のメンバーですらない。
(3)2013年予算案をめぐる大統領と首相府の間の齟齬
プーチン大統領は大統領就任前の公約で、公務員給与を2018年までに50%引き上げとか極東開発とか年金改革とかを約していたのだが9月末、「2013年の予算案にそれが反映されていない。メドベジェフ首相は関係の大臣3名を譴責するべきだ」と述べた。これに対してメドベジェフ首相は閣議で、「予算の原則を譲ることはできない」と正論を述べ、シルアノフ財務相はセーチンの差配する持ち株会社ロスネフテガスの自己留保1300億ルーブル(約3000億円)の95%を没収して財源とすることを提案したが、プーチン大統領は3名の大臣を譴責する大統領令に署名、そしてロスネフテガスの資金没収も実現せず、予算案は下院に上程された。一連の騒ぎの中でゴヴォルン地域開発相は辞意を表明してプーチン大統領に解任された。一連の騒ぎは、プーチンの公約実行のための財源がないことを誤魔化すための狂言であった可能性もあるが、他方メドベジェフ首相の無力さをも示すものであった。
(4)プーチン大統領の健康問題浮上
11月初旬には、「プーチン大統領の健康問題」(背中を害して外遊、公務にも差し支えているというもの)が表面化したが、その真偽は不明である。テレビ画面を見ている限り、彼の表情に異常はない。
他方、9月5日付ITAR・TASSによれば、大統領府は、高級官僚は大統領令があれば、これまでの60歳ではなく70歳まで働けるようにする法案を上程した由。これまでの例外延長は65歳までであり、「プーチン大統領も70歳までだ」という受け止め方が行われている由。だとすると、彼の任期はあと10年ある。
(5)進む規制強化
7月には、外国から金をもらっているNPOはForeign Agent(ロシア語では、Agentはスパイの意味が強い)として法務省に登録するよう、法律が改正された。「統一」の議員が提案したものである。同じく「統一」の議員によって、政府要人の名誉を毀損した場合の刑罰を定めた条項を刑法に復活させようとする動きがある。最大5年の懲役という厳しいものである。
児童ポルノ等、「違法」なコンテンツを掲載するインターネット・サイトへの取り締まりも強化される。そのようなサイトのリストを政府が作り、それをブロックできるようにする法律が採択されたからである。家庭・女性・児童問題委員会で、超党派で起草されたものであったが、運用によっては政治的弾圧にもなり得る。ウィキペディアはこれに抗議して、自ら数日間閉鎖する挙に出た。
8月17日にはモスクワ・ハモーヴニク地区裁判所で、女性ロック・グループPussy Riotのメンバー3名に対する有罪判決があった。2年の実刑である(うち1名は後に免除される)。2月、モスクワの救世主大聖堂でプーチン批判のパフォーマンスをしたため逮捕されていたものだが、報道を見る限りでは判決理由は恣意的である。プーチン大統領はロシア正教会の熱心な信者であり、教会が冒涜されたことを許せないのであろう。
9月14日には、この半年反政府運動に加わっていたGudkov下院議員が、不正行為があったとされて議員資格をはく奪された。また現在議会では、国家反逆罪適用の対象を拡大する法改正が進んでいて、これが採択されると、ロシア人との情報交換、金銭の授受等は双方にとって危険なこととなりかねない。
またロシア政府は、10月1日から米国のUSAID(経済協力、技術支援を行う組織)の活動を停止するよう求めた。民主化運動への支援を当局に嫌われた他、プーチン大統領が「ロシアは外国から援助を受ける時期はもう卒業した」ことを強調していることが背景にあるのだろう。これら一連の動きによって、資金源を断たれるロシアNPOは多数に上るようだ。
面白いのは、社会の大勢はこれらの秩序強化措置を支持していることである。7月末、中立系の世論調査機関レヴァダによると、58%は要人の名誉毀損への罰則復活を支持、20%が反対、インターネット・サイトのブラックリスト作成に62%が賛成、16%が反対、「外国エージェント」法には45%が賛成、18%が反対だった由(7月31日rbth.ru )。8月28日のITAR・TASSによれば、国民の27%は政治的弾圧が始まったと思っているが、56%はそう思っていない。
(6)1年前、総選挙を前にして与党「統一」の不人気をカバーするべく、下部の大衆団体として「全ロシア人民戦線」が結成されていたが(総選挙、大統領選挙ではまったく活動せず)、これが独自の政党になることを目指し始めた兆候がある。8月31日のITAR・TASSによれば、同戦線は地方支部に「統一」その他政党と無関係の人員を置こうとしているし、11月、12月に設立党大会を行う予定だとの観測も流布された。しかし10月19日に同戦線指導部と会見したプーチン大統領は、「来年春には社会組織として正式登録したらいい。政党になるよりも、今のようにいろいろな政党が加われるようになっているのがいい」と述べ、当面のけりをつけた(10月19日ITAR・TASS)。
(7)7月には家庭のガス料金、ウォトカ等の価格が引き上げられた他、駐車違反の罰金は300ルーブルが3000ルーブルへとつり上げられた。これに対するデモの報道はなかったが、民衆の恨みは深く潜行している可能性がある。それは、メドベジェフ首相の車列がサンクト・ペテルブルクで大渋滞を起こした際、運転者たちが車列に抗議のサインを示したことに表れている(10月18日付Financial Times)。
(8)タタールスタン共和国でテロ事件が続いたことが注目される。タタール人はチュルク系少数民族だが、地元の油田をバックにソ連時代から発展した経済を持っている。穏健イスラムであるが、ロシア帝国時代から領内のイスラム諸民族の知的中心であった。
そのタタールスタンで7月19日、共和国のイスラム組織首位者(Mufti)とその教育部長がそれぞれ違う場所で襲撃された(後者は死亡)。その背景には利権争い(メッカへのツァーは、どの国でも利権になりやすい)を指摘する向きもあるが、タタールスタンではイスラム原理主義のサラフィ派が3000名に達しているし、またコーカサス地方のイスラム反政府勢力と連絡を保つ勢力もいるので、不気味な動きではある。
(9)7月6日には南部クラスノダルのKrymskを中心に洪水があり、鉄砲水で160名が死亡、数万名が家を失った。当局が住民を退避させなかったことに批判が集中し、モスクワ等からは市民ヴォランティアが多数、救済にかけつけた。地元のトカチョフ知事も批判を受けたが、プーチン大統領と近い人物とされており、今回も居座った。住民の怒りを和らげるため、7月下旬には地元の市長が逮捕された。
不安な経済
モスクワ市民の生活は今のところ問題を生じていないようであるが、欧州不況のためエネルギー資源等の輸出が落ちていることが、国内での投資停滞等に結びつき、成長率は5%を割っている。資本流出が増えていることから、来年には瞬間風速で国際収支が赤字となる局面も出てくるのではないかと予想されている。そうなるとルーブルが下がって、インフレが激しくなるだろう。
またプーチン大統領の公約のうち、教師の賃金引上げ等の負担は、地方自治体にほぼ丸投げされている点も不安を誘う。地方自治体は財政的に苦しく、中央からの交付金もまったく不十分だからである。来年1月あたりには、賃金が公約通りには上がらないことを見てとった国民が抗議の声を上げることが懸念される。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.japan-world-trends.com/cgi-bin/mtja/mt-tb.cgi/2314