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世界はこう変わる

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2013年3月16日

ソ連的なるもの の復活

自由でもなく独裁でもなく、市場経済でも社会主義でもなく
――方向感喪失のロシアーー

2月14日から3月3日までモスクワ大学ビジネス・スクールで集中講義する機会があった。その際、ロシアの旧友たちと意見交換する機会が多数あったので、街の印象も含めていくつかのメモにまとめておくこととするーーー

今のロシアは、物資とサービスは西側なみ、政治の手法は権威主義・強権主義、つまりソ連的といった、奇妙な混合物である。

日本もそうだが、20年間で社会は変わらない。ロシアでは、1991年のソ連崩壊後、旧世代は力あるポストから放逐されたかに見えたが、その後若手リベラルは結束できず、プーチン・旧KGBチームによってマージナライズされてしまった。そうして旧世代が諸方の組織で復活して、締め付けを強めているのが現状である。これに対する不満は社会に沈潜しているが、昨年の反政府集会が尻すぼみになってしまったことが示すように、核となり得る指導者を欠いている。

だから若者たちは言う。「年寄りたちが考え方を変えないと、どうしようもない。しかし彼らは変わらないだろう。彼らがいなくならないとだめだ」。古い社会で育った者が引退するまで、30年以上は必要だろう。つまり古い時代に5年くらい働いて30歳になったとすると、彼らが退職する60歳までの30年間、もしかすると40年経たないと、社会は変われないということなのかもしれない。

だが、後に続く世代が「まとも」である保証は全くない。ソ連崩壊後の教育水準低下とモラルの崩壊によって、ロシアの若い世代は即物的でニヒルな側面も備えるようになっているからである。

一言で言って今日のロシアは、共産主義に代わるイデオロギー上の背骨を確立することもなく、社会主義でも資本主義でもない、社会には善から悪まで賢から愚まで、ありとあらゆる傾向が方向感もなくただ泡のように漂う、どっちつかずの産油途上国的様相を呈していると言えよう。

(秩序と安定)
モスクワは渋滞が激しいし(諸方に違反摘発カメラが設置された今年になって、渋滞は大きく緩和したらしいが)、治安も悪くないので、移動は全部地下鉄、乗り合いタクシー、そしてバスでやった。今時のモスクワの地下鉄の乗客は、服装もちゃんとしており、表情も疲れていない。5年くらい前までは、地下鉄は疲れた市民、酔った軍人、不良青年たちがたむろする場であったことに比べると、まるで1970年代のソ連に戻ったような感じがする。違っているのは、青年たちばかりか年配の婦人までがiPadや電子書籍に読みふけっていること、インターネットでは世界を駆け巡り、CNNまで自由に見られることだ。物資やサービスは西側のものがもう定着したし、表面的な自由もあるのである。

1990年代、自由化、市場経済化の実験が大混乱に終わった後、フランス革命後のナポレオンにも比すべきプーチンが出て、混乱を収拾した。ナポレオンがどうだったかは知らないが、プーチンの場合、改革を憎み安定と分配を切望する大衆の輿望に乗って権力を維持しているのである。自由、民主主義は二の次で、大衆への分配(一方で、国の財産を掌握したエリートは腐敗に熱中する)が最重要になる。それは1917年のロシア革命後に言われた「プロレタリアート独裁」に似て究極のポピュリズム、つまり「大衆独裁」なのである。ここでは、自分一人の自由と権利を求めて声を上げるインテリは、「こいつは社会の敵だ」という大衆の声にいとも簡単につぶされてしまう。

今、ロシアのマスコミでは、そのような大衆独裁を表す言葉として、「国有化」(Nationalization)という言葉が面白半分使われている。エリートも「国有化」、インテリも「国有化」、青年も「国有化」してしまう。要するに、何でも大衆の利益に奉仕させ、社会の雰囲気に合わさせ、分配してしまおうというのである。

テレビは人をバカにしたように、犬とか花とか料理の番組が多い。真面目な新聞や雑誌はもう売れない。テレビのヴァライティー番組の出演者や観客を見ていると、日本と同じで皆楽しそう、自由そのものに見える。彼らの顔は温かさと気配りにあふれていて、ソ連時代のような「みんな家族」といった雰囲気が漂ってくる。みんな、「ロシア互助組合」という一つの組織に属しているのだ、とでもいったように。「自由がない」、「自由がない」と言って走り回っている一部のインテリは、いったいなにが不満なのか――とさえ思えてくるのだ。

もちろん、(腐敗一掃キャンペーンで)今日は誰が逮捕されたとか、プーチンがどういう集会でどんなスピーチをしたとか、断片的なニュースはあるのだが、その全体的な位置づけはわからない。結局、大衆は断片的なニュースの意味も知らされることなく、当局の思う方向に世論誘導されている。

皮肉なことに、社会が課す枠のなかで人生を楽しんでいるだけならば、人間は「自由」でいられるのだ。動物の自由に似ているとでも言おうか。では、19世紀以降、インテリ達が「自由」と呼んできたものの中身はいったい何なのか?

(格差)
人々が醸し出す雰囲気は、「ソ連がほぼ完全に復活した」というものだが、社会の格差はロシア帝政末期なみだ。零下の温度、雪で濡れた歩道で土下座、深く頭をたれたまま施しを乞う老婆など、5,6年前より乞食が増えた感じさえする(乞食はソ連時代にもいたが)。そしてソ連とは違って、貧乏人はまともな治療も受けられない。ロシアの将来についていつも楽観的だった知り合いの若手企業家も、母親の入院費用が170万円で、「払えなければお母様のことは諦めてください」的対応をされたことにショックを受けていた。幼稚園も月15万円のところがある。

(公徳概念・教養水準の低下)
ブレジネフ時代末期のソ連では、共産主義という公徳心が建前としてある半面、予算横領が横行する現実との間の乖離が甚だしく、これが共産党体制への信頼を崩した。ゴルバチョフが始めたペレストロイカはこの点も是正しようとしたものだったが、建前と現実の間の乖離は現代ロシアでも顕著である。共産主義がないだけに、建前すらない。ただ腐敗し分裂した社会があるだけだ、とでも言おうか。

第1チャンネルでは深夜、「つっこみルポ」と題する番組で、若い女性アナが共産党大会を取材していた。iPad、ジーンズ姿、ファミレスの街頭風景とはまるで違う。いずれも灰色の背広姿、70歳以上に見える共産党のお歴々。まるで、ほこりをかぶった50年前の写真が突然動き出したかのようだ。女性アナは、おちょくりまくる。老人党員たちは顔を見合わせると、「私どもの党も若返りをはかっていまして」と言って示したのが、55才くらいの婦人。彼女は、「昔は医療も教育も無料だったのに」とやたら熱してしゃべりまくる。画面に出てくる党員、ピオネール(少年共産主義者)は皆、心に何か病気を抱えている感じを与える。教育水準にも問題があるようで、女性アナも「ではこれから『バングラダシュ』からおいでになったゲストにインタビュー」しますとか言っている。その「バングラダシュ」からやってきた老共産党員は陽気な人で、金髪のロシア美人である女性アナを自分の脇に引き寄せて嬉しそうに笑ったりしている。

1990年代に比べればもちろんのこと、5年前と比べてみても、犯罪は減った。地下鉄はもう安心して乗ることができる。僕の友人は、薄暗がりの路上に駐車しても平気である。以前なら、ワイパーを取られたり、タイヤに穴を開けられたりしたので、暗がりには駐車しないよう気をつけたものだ。

 だが、最近のモスクワは住みにくくなったと言う人は多い。まず、ここはマッチョの世界で気が荒い。車は大きく、犬も大きい。青年達も以前よりサイズが大きくなっている。気が疲れる。そして帝国だった名残りで、モスクワにはイスラム文化が氾濫している。中央アジアやコーカサス諸国からの出稼ぎ者が多いからである。かくして街頭の露店や乗り合いタクシーでは、中東系のメロディーが鳴り響く。そして、まるでわざとやっているように、喉がつぶれ、鼻にかかった大声でしゃべりまくるイスラムの男達。気が疲れる。

 僕はモスクワ大学の寮に泊まっていたのだが、毎晩、この広壮な建物の正面で自動車レースをやる青年たちがいた。やたらエンジンを吹かし、タイヤをきしませる。ふつうの乗用車でけちなことをしているのだが、夜の11時から朝の2時、3時まで毎晩だ。建物の正面には学長の住居もあるそうで、パトカーが時々張ってはいるのだが、パトカーが消えるとたちまちレースが始まる。だから2週間、日中は気が疲れ、夜になっても気を休める暇がなかったのだ(夜は耳栓をして防いでいた)。

(社会の分裂――その1)
ソ連崩壊後の1990年代に流動化したロシア社会は、今や完全に固まっている感じがする。ソ連時代の安定が戻るとロシア人たちは、この疾風怒濤の20年間などまるでなかったかのように、ソ連的日常(ソ連時代よりはるかに便利になったが)にどっぷりつかり、その中で指導部の悪口をぶつぶつ言い始めている。だから、プーチン大統領の支持率もじりじりと落ちているのだ。

そして固まったとは言っても、社会が「まとまった」のではない。汚い澱やあぶく、様々の異質なものがそのまま凝固したので、社会の温度が上がればまたばらばらになってしまうだろう。今回垣間見た、いくつかの社会集団を列挙してみよう。

野党の内情に明るい、ある記者は言った。「政治家の教育水準、道徳水準の低さには驚く。彼らは、一日で政治的な立場を豹変させて何とも思わない」。そしてその一方で与党は、予算をむさぼるだけで、結果を出さずに平然としている。無責任とシニシズム、エゴイズム。無知、無恥が幅を利かせる。

インテリはこのような状況に不満だが、何もできない。1年前は反政府の集会に参加し、「絶望して海外へ逃避」する者も多かったように報道されているが、不満を抱えるロシアのインテリ全員が満足するような職が海外にあるはずもなく、彼らも結局は国内でくすぶっている。リベラリズムと知は小さな一隅に追いやられてしまった。リベラルの旗手的存在だったラジオ局「モスクワのこだま」もスタッフの老齢化(筆者より若いが)と共にマンネリ化し、インテリの間の人気を失った。インテリも互いに口を利かない者が増えた。おそらく、当局に目をつけられているインテリ、外国からカネをもらっているインテリが敬遠されているのだろう。

「リベラル」陣営は崩壊し、分解した。プシコフ、ニコノフといった連中は、以前蔑んでいた国会議員に自らなっている。現在、インテリの間で人気があるラジオ局、ルースカヤ・スルージュバ・ノヴァスティ(ロシア通信局)を差配するのはドレンコだが、彼は1990年代末、政商ベレゾフスキーの資金を受けて国営テレビを乗っ取り、その後追い出されてウクライナで稼いでいた男なのだ。
人気番組とは言うが、そのスタイルはアメリカの大衆向けトーク・ショーを真似ただけのもの。時事問題を保守的な立場から「鋭く」評論しながら、電話で視聴者と対話する。対話と言っても、視聴者を嘲り、傷つけるのを何とも思っていない。相手の発言をさえぎって、しゃべりまくる。これはリベラルの自由ではなくて、粗野な自由、力の自由、ならず者の自由だ。ロシア語で言うVolya(自由放埓)に相当する。

リベラルなインテリ、学生などは「ロシアにも『市民社会』ができてきました」とか細い声で言う。まだ大声で言えるほどのものではない。こうしたインテリはやることなしに、ソ連時代のインテリのように文化や教養に専念し、知的水準が上がるかもしれない。しかし、経済、技術は50年遅れたままになるだろう。

(社会の分裂――その2 「反米」の顛末)

ロシアでは、「反米」は中国の「反日」にも似て、国民をまとめるために使われてきた旗印なのだが(実際は、米国は第2次大戦でソ連を大々的に助けたので、ロシアの老年世代の間ではアメリカと言えばコンビーフの缶詰、チャールストンの陽気な踊り、つまりソフト・パワー、豊かな生活というプラスのイメージが根強く残る)、これがまた今日のロシアでは茶番劇的展開を繰り広げている。

昨年ロシアがWTOに加盟したので、米国議会は11月、ロシアに最恵国待遇を与える法律を採択したのだが、保守的議員の策動でそれに付帯条項がつけられた。「マグニツキー法」と名づけられている。これはロシア内務省の不正を告発したロシア人弁護士(米企業に雇われていた)マグニツキーが投獄され、獄死したことに対する報復で、彼の逮捕、獄死に関わったロシア政府要人の米国入国を拒否し、米国内での資産を凍結するというものである。

これに対してプーチン大統領は反発した。内政干渉だし、議会の動きを止めようとしないオバマ大統領の誠意が疑われる、というのだ。そして国会議員やマスコミは、「ロシアの孤児が養子先の米国で虐待されている。殺された子供もいる」というストーリーを大宣伝し始める。「孤児の人権を尊重しない米国に、ロシアの孤児はもう出さない」という法律が、議会を瞬時に通過する。

1年前、総選挙結果を当局が操作したことに反発して立ちあがった市民達は、「悪いのは孤児を多数出すロシアの社会だ。孤児が米国で養子になって幸せになる権利を奪うのは許せない。古代、嬰児を殺させたユダヤのヘロデ王のようなものだ」として、この法律を「ヘロデの法」と名づけ、抗議集会を始めた。リベラルのラジオ局「モスクワのこだま」では、ラティニナ(反体制インテリ女性)が「モスクワのゴミ投棄場では新生児の死体が毎日2つ・・・」と放送する。

2月末には折悪しく、一人の孤児が米国で亡くなった件がセンセーショナルに報道される。米国当局は「事故死」と発表したが、ロシアの報道では「養親に覚せい剤を飲まされたあげく、虐待されて殺された」ということになった。3月2日にはモスクワで政府系、野党系入り混じっての大集会が開かれる。「アメリカで殺されたマクシムを悼む会」と名づけられて。舞台では、若者たちが悲しそうな振付の舞を舞った。翌日、「モスクワのこだま」は、「昨日の集会に参加したのに、約束のカネをもらえなかった市民が当局に苦情を述べている。また、大学の学長たちは、集会に学生を動員したことを非難されている」というニュースを報道した。もうこうなると、孤児の人権も何もない。

(社会の分裂――その3 病む青年、戦う青年)

今回、あるエリート大学で講演したのだが、そのあと寄ってきて、「日本では『貴族』は今どうしているのか」と(真面目に)聞いてきた学生がいた。ソ連崩壊後、ロシアには一貫して帝制復帰論者がいて、この学生もその一人なのだ。なるほど貴族的な物腰の若者ではあったが、その感覚は現代から200年は後れて、ほとんど精神病の領域である。

他方では、アメリカなどと同じく「Y世代」と呼ばれる即物的な若者たちが育っている。ある大学教授に言わせると、最近の学生は「自分は――が欲しいのだ。おまえ(教師のこと)はそれを自分のために見つけてこなければならない」といった調子なのだそうだ。そして、試験でのカンニングはごく普通のこと。

今の学部学生が生まれたのは、1990年代ロシア大混乱の真っただ中で、出生率が極度に落ちていた頃だ。当時子供を作る余裕のあったのは、官僚、成金、マフィアといったところだろう。子供を甘やかすか、しつけができないか、どちらかだ。

そして、教師の問題がある。西側で暮らした経験もないのに、市場経済について教えろと言っても、無理なのだ。「ロシアの大学ではやたら理論を教えるのです。私は、全部マスターしたつもりなのに、社会に出ると何も役に立たない。変だなと思います。現実との接点がないのです」と、ある若者は言った。これは、理論で現実を割り切ろうとしたマルクシズムの名残でもある。近代化を装ってゲーム理論などを引用したりもするのだが、それは勝ち負けを重視するマルクシズム史観の飾りとして使われたりするのだ。

金持ち有力者の子弟の間にはシニシズムが広がっている(カネとコネがすべてを解決すると思っている)一方、何かを変えようとする青年たちもいる。僕の授業に出ている学生の中にも、そういうのはいた。イリーナ・ヤーシナのように、大きな改革を叫ぶ前に身の回りの具体的なことから改善を始めようとする「小さなことから理論」(19世紀、革命運動への反省から生まれた運動の今日版である)というのもある。

そして2月23日の「祖国防衛の日」(軍隊、あるいは男性のための祝日とされる)周辺になると、テレビは戦争映画(第2次世界大戦)だらけになる。現代の世界でこのような現象が見られるのは、ロシアと中国くらいだろう。現在に問題がある国は、過去の栄光で国民の団結をはかる。現在に問題がある専制主義国のマスコミにとっては、現在を語るより、戦争映画、反日映画を流す方が無難である。

一部の若者は、こうした現状を変えようと思っている。外国を見てくる必要があると思っている。しかし、大多数は安穏な国営企業への就職を望み(学生の50%はガスプロムへの就職[国営でも給料が高いからだ]、50%はヴェンチャーを望む。民営企業は大変なので行きたくない)、大学で単位を取得することに汲々としている。その大学では学部や教授の独立性が失われる一方で、カリキュラムも学部毎の自由がきかない。外国人教師の都合で、集中講義を一週間ずらすことさえ不可能になった。自由度を維持するためウラ金を作ったりすれば、融通のきかない会計規則を無視して新しいことをやろうとした経営者が投獄されたソ連の二の舞になってしまう。

そんなことで、今回モスクワへの往路でアエロフロートの席に隣り合わせたロシア人女子学生の話しでこの項をしめくくる。彼女は、スウェーデン南部のルンドで日本企業の経営モデルを英語で勉強中なのだそうだ。そこの交流プログラムを使って、早稲田で3週間研修を終え、モスクワ経由でスウェーデンに帰るところだった。

彼女は、父はエンジニア、母は医者、今でも両親とも働いているという家庭。サンクト・ペテルブルクの大学で4年間、日本語を学んだが、両親の経歴ではコネが十分でなく、仕事が見つからなかった。そこで、外国人でも大学が無料のスウェーデンで、勉学を続けている次第。

「ロシアには国営企業しかないんです。でも、腐敗している。ロシアもだんだんふつうの国になってきたのですが、教育水準が下がってます。外国語教育も、昔に比べるとだめになりました。15歳の子に聞いても、アンナ・カレーニナを知らないんです。えっ、村上春樹? 私の趣味ではありません。芥川竜之介が好きです。中国人の学生はどうかって? あの人達は、同じことばかり繰り返すんです。ヨーロッパでは、イギリスやフランス、そしてドイツの人たちはロシア人を差別するの。日本でも、私がロシア人だと言うと変な顔をされる。でも、北欧は違うわ」

3月初め、集中講義、そして試験の監督、すべてを終えて、もう22時。校舎から出ると、冬なのに時ならぬ雨が降ったあとで、まだどす黒い雲がモスクワの明かりが照り返す空にたなびく。街灯の鈍い光りに照らされた泥雪と水たまり。ロシア。「ヴェンチャーと言っても、有力者の後ろ盾なしにはやっていけないんです」という若者の述懐が頭に響く。ウォークマンのスイッチを入れる。ピアッツォラを無性に聞きたい。「ブエノス・アイレスのマリア」。低音のバンドネオン、そしてチェロが軍隊の歩のような、容赦ない運命のリズムを刻みだす。

コメント

投稿者: 大得価通販 店内全品ポイン&#1 | 2015年8月16日 17:53

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