インド旅行 ムンバイ バンガロール その2 ムンバイで
デリー空港ターミナル
デリー空港ターミナルについては、薄暗いうらぶれた印象が残っていたが、今回は最近のアジア特有の巨大でモダンなものに変わっていた。一昨年新設されたものらしい。その割には、それほどぴかぴかでもなかったのだが、トイレは日本なみの清潔さだった。
Visa on arrivalのカウンターに行ってみる。2人も係員がいて、ほっとする。ガイドブックには、「係員がいないこともあります」と書いてあったからだ。掲示を見ると、「カンボジア、日本、ルクセンブルク、フィリピン、ベトナム、ミャンマー、フィンランド、ラオス、NZ,シンガポール、インドネシアの方はここでヴィザを購入できます」とある。これらの国は、いったいどういう基準で選んだのだろう。ヴィザ購入に特に問題はなかったが、英語のできない個人旅行者には難しいだろう。
やれやれと思って、国内便に乗り換えるために、ターミナルの外に出る。すると冬のデリーの戸外は十分寒いのだ。ターミナルに戻って中でセーターを着ようとすると、汚いイスに腰掛けてターミナルに入る者をチェックしていた老人が手を振って「しっ、しっ」とやる。3秒前に目の前を通り過ぎたばかりなのに。この手の人たちには、英語は通じない。
国内便ターミナルのFood Courtで、懐かしいマクドナルドを見つけたので行ってみると、ハンバーガーがない。当然だ。マクドナルドもチキンの照り焼きくらいしかない。でもそれではマクドナルドではない。
歳を取ってくると、インドではビーフはタブー(イスラム教徒も多いので、安全パイはチキンかマトンかということになる)ということは、頭の中に残らない。自分の食べたいもの、やりたいことしか考えないようになってくる。
ムンバイはオリエント文明圏のなかに
デリーを飛び立ちムンバイの空港に着いたのは夜中の1時半。日本から直行便もあるが、マイレージを使った関係でこうなった。以前はタクシーの客引きがわんさと寄ってきたそうだが、今では整然としていて、事前料金制のprepaid taxiというシステムになっている。降りる時に料金でいざこざが起きないので、安心だ。空港ターミナル内でホテルまでのタクシー料金を払い、切符をもらって外に出ると、タクシーの行列が待っている。と思ったら、そんなことはなく、真夜中の空港はがらんとしている。やっと片隅にタクシー待合所を見つけた。何の表示もない。才覚を利かして見つけるしかないのは、やはりインド。
空港から市中心まではタクシーで50分ほどかかるが(日中はバイクやリキシャと呼ばれる小型オート三輪が入り乱れる渋滞で、2時間はかかる)、500ルピーほど(1000円弱)だった。韓国「現代」の小さな車で、トランクもなく、スーツケースは運転手が屋根にのせ、ロープで縛りつけた。エンジンは1000ccくらいだと思うが、スピードメーターにはなんと180キロまで書いてある。でもエンジンは良く、操作性も良いので、もしかすると本当に180キロ出るのかもしれない。
インドでは日本のスズキが乗用車市場の70%をおさえていたが、最近は現代の進出が著しい。日本の製造業の多くは以前、商社に海外での販売を依存していたから、今でも海外での体制が弱い。日本国内では人と人のつながりで売ろうとするのに(たとえば販売店網をおさえるなど)、海外に出ると製品の性能で売れると思い込む。日本人社員は海外で数年しか勤務せず、「大過なく」務めては本社に復帰することを目指しているから、海外の現地の社会に飛び込もう、溶け込もうとしない。そこにいくと韓国の現代やサムスンなどは、海外に赴任する社員に向かって「帰って来られると思うな。□□に骨を埋めるつもりでやれ」と言って送り出すのだそうだ。そういった連中がコンプライアンスもものかわ、必死で頑張るから、韓国企業は伸びる。もっとも、ウォン安も彼らに相当味方しているが。
ムンバイの中心部は函館のように、海中に突き出た岬だ。その突端に近いところには、Gateway of Indiaという大きな凱旋門が海に面してたっている。これはその昔、イギリス国王がインド視察の時にくぐったものだし、1948年2月イギリス軍が撤退した時もこの門をくぐって太鼓をたたいて(多分)海へと去って行ったのだそうだ。
長い海岸沿いの道を走っていくと、夜2時だというのに、途中のグランドでクリケットか何か煌々と照明をつけてスポーツをやっていた。2時過ぎにホテルに着く。中級のホテルだが、受付はちゃんとしており、てきぱきとチェックインをしてくれた。但し、コンピューターではなく、幅広の大福帳を出して僕のデータを記入していた。
これは日本からインターネットで調べてクレジット・カードの番号を登録した上で予約したホテルなのだが、広々とし清潔でモダンで、一見申し分ない。だが両側から引いて閉めるカーテンが真ん中でぴたりと閉まらない、コンセントがゆるくてプラグが抜け落ちる、洗面所の蛇口の金具がちゃんと止めてないのでどちらでも向く、といった細かい問題はずいぶんあった。これは、その種の作業をする低いカーストの人たちの意識の問題なのだろう。彼らにしてみれば、自分たちの生活にはおよそ無縁な、「特権階級のやつらのための贅沢品」に真剣にかかずりあう気持ちなど全然わかないのだろう。
テレビをつけてみると、イスラム系、アラブ系チャンネルが驚くほど多い。考えてみればペルシア湾にも近いムンバイは、アジアと言うよりは中近東文明圏にむしろ近いのだ。そして現地語の発音は、中央アジアのウズベク語の語感に驚くほど似ている。中世インドのムガール王朝を作ったのがウズベキスタンからやってきたバブール王子だったためでもあるまいが(と言うのは、今の「ウズベク人」がウズベキスタンに北から入ってきたのは、バブール王子以降のことだから)、インドもウズベキスタンも、ペルシャ人、ペルシャ語、ペルシャ文明が深く浸透している土地柄なので、むしろそこから相似性が出てくるのではあるまいか? ペルシャのゾロアスター教の流れを汲むパーシー教のパーシーとは、ペルシャを意味するファルシのことだし、そのパーシー教の祖先は昔このムンバイのあるグジャラト州に船でやってきたのだそうだ。パーシー教の代表格として有名なタタ財閥も、その本社はムンバイにある。このように、工芸品の意匠も音楽もインド、特にその西半分はアジアと言うより、「オリエント」文明圏に属していると言った方がいい。
社会面記事と国家意識の涵養
インドでは、テレビ・チャンネルにCNN・IBNというのがあり、米国CNNのスタイルで始終現地編集のニュースを流している。その取材ぶりはCNNをまねてはいるが、CNN本体のものよりは突込みが浅い。ニュースの背景にCNN本体と同じように、いかにも迫真感迫るダイナミックな音楽を流しているので、ちょっと見には感心してしまうのだが。
テレビ・ニュースは、社会面のものが多い。その日は、学校の生徒が女性数学教師を刺し殺した、というニュースを繰り返していた。それを見ていると、画面に出てくるインド人の生活ぶりは近代的な都市中産階級のものである。しかし選挙運動に話題が移って農村が出てくると、ここはもう我々の知っているインドになる。
ムンバイで発行されているThe Times of Indiaという新聞は、記事のほぼすべてが社会ネタ、ゴシップの類になっている。その日のトップ記事は、定年の迫った軍総参謀長が誕生日を1年ずらすよう裁判所に求めて斥けられたというもので、国際記事などどこを探してもない。
もっとも社会面記事は、国民意識を一つにするには効果的な手法だ。共通のヒーロー、アンチヒーローを国民に持たせることで、自分たちは一つの国家に属しているという気持ちが自然に醸成される。そしてすべてのことをただ一人のヒーローや、ただ一人のアンチ・ヒーローに帰して単純化して報道することは、新聞が最も売れるやり方でもある。このThe Times of Indiaは日本で言えば、日刊スポーツが読売になったようなものなのだ。(続く)
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コメント
本日、2月27日NHKのクローズアップ現代に河東先生が出演されていました。精悍な表情で簡潔明瞭な語り口は、まさに河東節そのもの、切れ味が違うと納得しました。益々のご活躍を期待します。
さて、小生、一昨年、インドの日本語学校とネール大学の日本語学科ゼミに参加しました。日本に対する関心度の高さは予想以上でした。その好感度に反して空港の警備はテロの影響からか、かなり厳しく顔をしかめたくらいでした。
ただ、ニューデリーの猛烈な建築ラッシュと名物である牛の扱い(ほとんど見かけなかった)など、政治、経済、文化、宗教が一体となった国際社会を強く意識した国作りの光景を見て、将来の大国としての道を確実に歩んでいるインドの一端に触れた気がしました。