世界のメルトダウンその8 近代の諸概念の意味の喪失2 ネオコン流民主主義の独善
(13年前、「意味が解体する世界へ」という本を草思社から出版した。
米国のイラク攻撃が、「自由」とか「民主主義」というスローガンへの幻滅をかきたてると同時に、米欧諸国の足元でも移民により多民族国家化が進行し、近代の「自由民主主義」が危殆に瀕している様を随筆風に書いたものだ。僕が自分の書いた中でいちばん好きな本。
そして今、13年前に書いたこのことが、世界のメルトダウンを起こしている。
それについて共著本の出版を策していたのが頓挫したので、ここに自分の書いた分を発表していくことにする。これはその第8 回)
ネオコン流民主主義の独善
ネオコン(「新保守主義者」)とは、米国の識者の一部に顕著な思潮で、自由や民主主義を世界に広めることが米国の尊い使命だと考える理想主義者のことである。理想を持つのは良いことなのだが、その理想を武力や実力行使で実現するのをためらわないので、危険なことになってくる。ネオコン人脈は、二〇〇〇年代、ジョージ・ブッシュ政権の時代、米国政府の要職を占め、その力はイラク戦争で頂点に達した。
筆者がウズベキスタンで大使をしていた二〇〇三年の頃、米国のNGOが(NPOとも言う。環境問題、途上国の民主化支援等、公的な事業をする民間の団体のこと)ウズベキスタンで反政府活動を支援していた。それがウズベキスタン政府を殊更に蔑視、敵視したやり方だったので、彼らの一人に聞いてみたことがある。「そんなことをして今の政府を倒せたとしても、別の者が利権を独占して専制支配を強化するだけのことだ。権力の移行期には争いと混乱がつきもので、国民が苦しむだけのこと。まず経済を発展させなければ、利権争奪が繰り返されるだけで民主化はできないだろう」と。するとこの男は言った。「今の腐敗した政府をどんなに援助しても、国民の生活はよくならない。今の政府と既得権益層を除去しなければ、何も始まらない」と。
つまりネオコンには、途上国の経済発展のためのしっかりしたブルー・プリントはない。独善的で無責任なのである。日本の方にもこうやれば必ずうまく行くという秘策があるわけではないが、少なくとも日本政府による援助(その多くは低利の長期融資)は、橋や鉄道や電話網や発電所や製鉄所となって、現地の経済を着実に発展させている。その融資が現地の特権層に横領されて、全部なくなるというようなことはない。
後でくわしく説明するが、米国や西欧のNGOは、二〇〇三年にはグルジア(ジョージア)で、二〇〇四年にはウクライナで選挙の結果に不服を申し立て、市民を煽って抗議運動を組織、政権を倒してしまう動きを演出していた。また二〇一〇年からはチュニジア、エジプトなどで「アラブの春」と呼ばれる、民衆の抗議運動が起き、政権が倒されたが、この背景にも欧米NGOの活動があった。
ネオコン的な思想と行動は、途上国に自由と民主主義を広めたかに見える一瞬もあるが、結局は混乱を作り出す。ウクライナやシリアの内戦を導き、幸せにしようとしたその国の人間たちに例えようのない不幸、そして死をもたらす。自由な選挙ができれば、格差の元凶である利権構造を破壊することができて、投資環境を改善できる――わけではない。経済が未発達で、政府が経済の大部分を管理している国では、選挙の結果、別の者たちが権力を握れば、彼らが経済を牛耳って自分の利権にするだけの話しなのである。
西欧の経済発展は、自由選挙や民主主義があったから実現したものではない。経済が発展したから民主主義が次第に広がり、自由選挙が実現したのである。西欧の経済発展の引き金を引いたのが新大陸から大量に持ち去った金と銀、そして植民地インドという大市場であったことを思い出すなら、欧米の人たちは途上国に対してもっと謙虚になるべきだろう。
ネオコンたちは、第二次大戦で米国に敗北したドイツや日本で民主主義が広がった例をよく引用する。独裁国を善導して民主化するのは可能なのだ、と。しかし日独の民主化は、米国の占領行政が優れていたためだけではない。ドイツでは第一次世界大戦以前から民主化が進んでいたし、日本でも「大正デモクラシー」で二大政党制が成立していたのである。日本、ドイツとも、軍国主義やナチズムの台頭で、その民主制を一時失っていたのが戦後民主制に戻ったというのが、主な流れであろう。
民主主義を力で広めよう、広められると思ってはならない。ネオコンはそれをやって、「民主主義」という言葉の輝きを自ら破壊してしまったのである。
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