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2016年12月 3日

あれから25年 ソ連崩壊が語るもの 国家とはそもそも何なのか

(以下は「インテリジェンス・レポート」誌12月号に掲載されたものの原稿です。ソ連崩壊、社会主義経済瓦解というものをしっかり総括しておかないと、また同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。基本は、「あるものを分配、分かち合うだけでは、社会は回らない」ということです)

ソ連崩壊が我々に語るもの

 ソ連崩壊前後、筆者はモスクワの日本大使館で広報・文化を担当しており、この波乱の過程を4年間にわたって現場で味わうことができた。この政治・経済・社会・文化の大変動は、ロシア人の目から見た小説で描くのが最良。そう思って「遥かなる大地」(筆名:熊野洋、草思社)という大河小説を書いたのだが、その中に「革命から十年もたつと,  いつまでも続く政争と殺しあいはごめんというわけで,独裁者が民衆に歓呼の声で迎えられる――ナポレオンさ。ロシアでも,同じことが起こりかねない。」という言葉がある。ソ連崩壊後のロシアは大革命後のフランスさながら、「自由・平等」の熱に浮かれた混乱から保守化、そして対外再拡張、そして多分挫折というサイクルをたどっている。

歴史というものは、かくのごとく空しい繰り返しを永遠に続けるものなのか? その場合、プーチン大統領は今でこそ有力・有能な指導者だとされているが、長いロシア史の上では、体制・文明の変革を遂行したピョートル大帝ではなく、プーチン自身がよく言及する宰相ストルイピン(20世紀初頭、自営農創設を進めようとした体制内改革者。改革はうまく進まず、彼自身暗殺されている)程度の位置づけで終わるだろう。

ロシアの根本的な問題は、19世紀以降先進国で起きてきた産業革命の波、そのうち初期の重工業化のところで止まってしまい、その後の大衆消費社会に見合う経済体制を作れないでいることにある。車や家電など、大衆消費財を自分で作れないが故にGDP=社会の富が停滞した社会では、格差に伴う不満を緩和しにくくなる。どこかに富を再配分しようとすれば、別のところからそれを取り上げるしかないからだ。下層の不満が嵩ずると、それを利用して権力を奪取する者が必ず現れ、社会の中の分配構造を暴力で変えてしまう。

ロシアではそれが1917年のロシア革命で示現したのだが、この時も大衆は利用されただけで、権力と利権は共産党が独占した。金持ち・資本家の財産は接収され大衆に与えられたが、戦後のソ連では資金の多くは軍需に向けられ、経済は停滞する。その中で経済を差配する共産党員だけが特権を貪ったため、大衆の不満が嵩じて、今度は1991年の「革命」、即ち共産党とソ連の崩壊に至るのである。今ロシアの経済は少数の新しいエリートに独占され、大衆は格差の中に放置されている。経済成長力を欠いた社会では、このような空しいサイクルが繰り返されるのだ。これをゼロサム社会と呼ぼう。

この不満が出やすいゼロサム社会、しかも時差11時間にも及ぶ広い国土を力=軍隊・警察・秘密警察で抑えているのが、18世紀以来のロシアである。ロシア人は従順だとか、権力に弱いとか言われるが、本来の自己主張は強烈であり、それ故に彼らを治めるには強大な権力が必要なのである。そして国家権力の旗印としては、「ロシアは大きく強い」という誇り、ロシア正教(ソ連時代は共産主義だったが、正教も皇帝という世俗権力が頂点に君臨して人間の心を支配する点では、共産党支配に似ているのである)がある。「大きくて強い我らの国」への思いは米国や中国でも見られるものだが、経済力で劣るロシアの場合、「国家理念」への執着度、依存度ははるかに高い。だからロシア人の中には、日本という繁栄した国家を支える国家理念とは何なのか、その秘密を探ろうとして懸命になる者がいる。一人の全知全能な指導者が優れた理念を掲げているから日本は秩序が維持され、繁栄しているのだろうと勘違いし、天皇が単なる国の象徴であることをどうしても信じないのである。
今先進国で起きているAI、ロボット化で生産性が飛躍的に上昇し、文明は新たな段階に這い上がろうとしている。ロシアは利権の持ち主を時々入れ替えては新たな格差構造を形成する繰り返しを続けるだけなのか、それとも歴史の変化についてくるのか? AIの利用では、ロシアは既得権益に縛られている日本よりはるかに素早い。タクシー運転手はスマホのGPSに話しかけて道案内をさせるし、路傍駐車でもスマホを開けるとその場所での課金・払い込みができる。UBERもAirbnbも普及している。

そして、サンクト・ペテルブルクは言うに及ばず、モスクワでも、北欧と見まがう落ち着いて質素で清潔なカフェ、レストランの類が増えている。そして学生達は米国や西欧の文明に何も違和感を持つことがなく、就職の選択肢として「西側」をごく自然に勘定にいれている。数年外国で経験を積んだ後は、肉親、友人のいるロシアに戻ってきて一旗揚げようというのだ。

この国はどうなっていくのか。そのヒントは、ソ連崩壊をもう一度見直すことで得られよう。あの、国家のはらわたが赤く露出していたような時代を見直すことで。

「国」、「国家」は人造物―作るのも壊すのも人間次第

ソ連崩壊は、政治学上、いくつかの発見を筆者にもたらした。その一つに、「国家、国家と言っても相対的なもの。もともと人間が作ったものだから、どのようにも作り替えることができるし、壊すこともできる」という定理がある。70年間地上に覇を唱えたソ連帝国も、1991年12月8日ベラルーシの森の中で、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの首長が集まって「ソ連からの離脱」を宣言しただけで、いとも簡単に消滅していったのである。

日本では、明治の開国で学んだ欧州の国家形態は絶対的なもので、これが一番「進んでいて」、これからもこれをベースに世界史は展開していくのだと、今でも思っている。欧州の国家形態は主権国家、あるいは国民国家と言われるもので、これは単一の民族という意識を持った人間たち、単一に近い言語、そして明確な国境の3条件を備えたものである。しかしこれはフィクションで、国境はともかく、単一民族、単一言語という条件を備えた国家は、この世界では例外的存在だ。英国もフランスもドイツも、民族的にはいくつかに分かれ、言語もしかりなのである。そして中世の欧州は、民族、言語に関わりなく、いくつかの王家が姻戚関係や戦争で取得した領土が虫食いのように並立する、いわゆる家産国家と呼ばれる状態だったのである。

これはやがて、ブルボン、ハプスブルク両家の対立に収れんし、17世紀の30年戦争で両者は激突、ハプスブルクの敗北とブルボン王家の勝利で終わる。ブルボン王家はハプスブルクが掌握してきた神聖ローマ帝国内部の領主達に王と同等の「主権」を認め、これによって神聖ローマ帝国とハプスブルク王家を無力化したのである。これがかの有名な1648年のウェストファリア条約で、一般にはこの条約で「主権国家の平等」という原則が確立し、国際政治は王家よりも主権国家、国民国家を単位として動くようになったと言われている代物なのだが、そこはよく眉に唾をつけて見る必要がある。

ウェストファリア条約に何が書いてあろうと、現代の政治・法学者が何と言おうと、現実の世界の主権国家は平等でない
。世界史の主流はローマ時代から相変わらず弱肉強食、帝国的な存在の間の相克で決まっている。30年戦争後はブルボン王家のフランスと、清教徒革命で議会が権力を握った英国が、欧州内の地歩と海外の植民地を求めて100年以上もの抗争を繰り広げた。そして英国は当時の海運帝国オランダとも戦い――オランダのGDPは18世紀半ばまで英国のそれを上回った――、1780年の戦争で最終的勝利を収めると、地球規模の植民帝国を築くのである。

現在も、国際政治の主流は国民国家と言うよりも、多民族・多言語の帝国的な存在、つまり米国、中国、ロシア、インドといった大国に大きく左右されている。これらの諸国は通常の意味での国民国家でないにもかかわらず――筆者は便宜上「メガ国家」と名付けている――国民国家の諸道具、つまり強力な軍隊、警察、諜報機関、単一通貨等を備えて、主権国家として行動する。平等を建前とした不平等――これが世界の現実なのだ。

ソ連の崩壊はこうして、「国」というものを様々の思い入れなしに見ることを可能にしてくれたのである。

国を亡ぼすのは欲と無知=ポピュリズム

ソ連崩壊はもう歴史の彼方に去って、その過程をつぶさに研究しようとする者はいないようだ。そこには多くの政治学・経済学・社会学上のテーマが眠っているのだが。
政治学で言うならば、ソ連崩壊はポピュリズムが国を滅ぼした典型例である。ソ連は1970年代の原油価格高騰で西側から先進設備を大量に購入し、つかの間の繁栄を演出した。経済改革は行われず、反体制派は精神病院に送られる停滞した社会だったが、この「停滞のブレジネフ時代」は、ロシアの老年世代にとってはノスタルジアの的なのだ。だが、ソ連崩壊のドラマは、このブレジネフ時代の仮初の繁栄からスタートしたのである。

政治的停滞の中での仮初の繁栄は、腐敗と偽善を社会に蔓延させる。ゴルバチョフはそこをグラースノスチ(社会の欠陥を明るみに出すキャンペーン)とペレストロイカ(経済運営の仕組みの手直し)を打ち出すことで活性化しようとした。資本主義を採用したのではなく、あくまでもソ連的な計画経済・社会主義経済の再活性化である。ゴルバチョフが政権に着いた1985年3月前後、世界の原油価格は半額以上に低下(1バレル、30ドルが10ドルに)、原油輸出に大きく依存するソ連国家財政が赤字化の危機に瀕していたことも、ゴルバチョフを改革に向けて駆り立てた。

ところが改革、と言うか計画経済の規制緩和は、失敗したのである。どこの国でも、実態をよく調べないで既成緩和をしても効かない、あるいは逆効果になったりする。ソ連の場合、地区の共産党支部が野菜の流通まで差配していたので、ゴルバチョフが経済への共産党の関与を止めると、経済が回らなくなった。「マフィア」と呼ばれる連中が社会の表面に出てきて、流通に巣食うようになった。

これらの結果、ソ連崩壊1年くらい前には、商店の棚から商品が全く消える。これは、ものの値段がすべて国に決められていたのだが(国定価格と言って、価格が需給ではなく、官僚の独断で決まるのである)、当時現金が社会にあふれていたことから、インフレを予想――つまり価格が「自由化」される――する声が強く、流通業者=マフィアたちは商品を倉庫に退蔵するようになったからである。当時現金があふれていたのは、ゴルバチョフが企業長の自主性を拡大すれば経済は活性化するだろうと思い込んで、企業の利潤剰余金の内部留保分を大きく増やしたことが契機になっている。それまでは、企業の黒字は所属の省に吸い上げられて、同じ省の配下の赤字企業に分配されていたのである。企業長は、ゴルバチョフの改革で増えた内部留保を投資に回すのではなく、従業員の給与を引き上げて転職を防止したり、子会社を作って不正会計で公金で私腹を肥やすのに回した。どの国でもあるように、人間の強欲があらゆる改革、理念を駄目にする。

生活が厳しくなると、大衆は世直しを求める。その時特徴的なのは、「一人の英雄」に過度の期待を寄せ、その英雄が自分たちの生活を苦しくしている元凶である「悪者」を退治してくれる――こういう期待を無意識のうちに寄せるようになるのである。これがポピュリズム、あるいは更に悪い形態として衆愚主義と呼ばれるもので、まるでレミングねずみのように救いを求めて、実は破滅に向かって行進することになる。

1990年のロシアの場合、英雄はエリツィンで、彼は今回の米国大統領選挙におけるトランプの如く、エスタブリッシュメントーーロシアの場合共産党――を悪者に仕立て、大衆を煽っていった。彼は当初、反動化したゴルバチョフに代わって自由と民主主義をもたらしてくれそうな政治家として、インテリの支持を得ていたのだが、インテリなどどの国でも政治的には無力なものだ。生活苦で大衆がエリツィンに期待の目を向けて初めて、エリツィンは力を得た。彼は1990年6月、(まだソ連の一部であった)ロシア共和国大統領に初めての公選で選ばれている。そしてこのエリツィン・ロシア共和国大統領とその取り巻きが、ゴルバチョフを追い落とし、最高権力者となることを目指し始めたことで、ソ連は崩壊を運命づけられるのである。

1991年春ゴルバチョフはソ連邦内諸民族共和国の自治権を大きく強め、ソ連を国家連合的なものにすることでその維持をはかろうとしたのだが、軍、警察、KGBはこれに反発、1991年8月クーデターの挙に出て見事に失敗する。ロシア共和国政府のビルにたてこもったエリツィン一味が抵抗の核になり、モスクワ市民、軍・警察の一部の支援も得て、クーデター勢力による制圧を許さなかったのである。クーデター失敗の2日後、エリツィンはソ連共産党の活動を(超法規的に)停止、その資産を接収して、大衆の大喝采を受けた。共産党の資金を握る者達、あるいは利権を貪って来た老幹部達は相次いで自殺を遂げたのである。

後で見るように、エリツィンが権力を握った後、ロシアはハイパー・インフレと困窮の渦に投げ込まれる。ソ連崩壊は、ポピュリズムが国民のためにはならないことを如実に示したものだった。

内戦にならなかったソ連崩壊

ソ連末期には、西欧文明への帰属感を持つバルト諸国、あるいはウクライナでは独立運動が強まった。民主主義の伝統を欠き、モスクワ中央政府からの交付金・助成金への依存度の高い中央アジアではそのような動きはなかったが、クーデターでソ連共産党が消滅し、モスクワの権力が真空化したのを見て取った中央アジア諸国は8月末以降、相次いで独立宣言を発した。それは自由・民主主義を目指したものと言うよりは、ソ連共産党の下で張り巡らされた地元の利権構造をそのまま維持するためのものであったと言えよう。中央アジア5カ国にはソ連時代からの指導者がそのまま残っていたし、共産党は名を変えただけで万年与党となっていたのである。

エリツィンはゴルバチョフを追い落とすことを至上命令とし、民族共和国に対してはモスクワのソ連政府に上納金を送らないようけしかけた。このために1991年秋にはソ連邦政府は資金不足に陥り、省庁は機能できなくなり、官僚も離職を始めて、政府は文字通り空洞化したのである。

91年12月1 日、ウクライナでは国民投票の結果、独立支持が多数を占めた。ソ連邦でロシアに次ぐ大きな存在であるウクライナが離脱すれば、ソ連は成り立たない。その日、筆者はモスクワで山本寛斎氏や岡本行夫氏を招いてシンポジウムを主宰していたが、会場は満員で、ウクライナの国民投票のニュースなどどこ吹く風。生活風景は普段とまったく変わりなかったことを思い出す。政府は空洞化、商店はがらがら、道路は穴ぼこだらけだったのだが、地下鉄もバスも動いていたし、電気も水道もいつもの通り。ソ連はポピュリズムで滅んだが、それで直ちに大混乱が生じたわけではなかったのだ。

ウクライナが別の国になることには抵抗があっても(民族的にほとんど同一。しかも双方に親族が多い)、バルト諸国は「あそこはヨーロッパだから」ということで、そしてコーカサス諸国、中央アジア諸国に至っては「あそこが出て行けば、自分達の生活も少しは楽になる」というのが大衆の一般的感情で、国の分裂よりも――国の壊滅ではない。ロシアはエリツィンを大統領に存在していたのだから――自分の生活維持で精いっぱいといったところだっただろう。

だから、ソ連崩壊で独立を宣言した民族共和国に対してロシア共和国が戦争を挑むようなことはなかったし――ウクライナとは一時対立が激化したが、当時のロシアには戦争をしかける力はなかった――、ロシア共和国の国内でも内戦が起きることはなかった(内戦は、タジキスタン、グルジア(ジョージア)など各民族共和国内部で起きた)。これは、国内が赤軍と白軍に分かれて5年にもわたる内戦を繰り広げたロシア革命直後に比べると、奇跡のようなことで、ソ連崩壊という利権の総組み換えがあったにもかかわらず、ロシア共和国は大きな流血騒ぎを免れたのである。これはどうしてだろう。ロシア人が良識を持っていたからか? 確かに良識は持っている。都市住民、地方の農民の多くはまともな仕事で生きている実直な人たちで、ソ連崩壊直後の経済大混乱も、何とかアルバイトやコネで生き延びたのだ。

後に旧ユーゴで見られたように、普通の市民がある日銃を取って隣人を襲うようになるのは、権力が空洞化して、自分の財産をどこも保証してくれなくなる場合である。その点ソ連では、多くの資産は国有で(住宅も殆どが個人所有ではなく国から安く賃貸)、隣人とかマフィアに取られる蓋然性が小さかった。その後国有財産を掠め取った新興事業家、あるいはマフィア組織の間では血で血を洗う抗争が数年にわたって続いたし、モスクワでは死体が道端に転がっていることも珍しくなかったのだが、正直に貧乏暮らしをしている限りは、家を失うことはなかったのである。アパートの買い取り(民営化)が認められてからは、マフィア、詐欺師が所有権をだまし取るケースも出たが、それは一般的な現象ではなかった。

私有財産に乏しい社会では、流血の内紛は起こりにくい――これは政治学の定理になるだろうか?

ロシアという国のかたち――滅多なことでは倒れない

ロシアは純粋な意味での国民国家ではない。17世紀以降、力で拡張を重ねた末、異民族を支配下に置いた上での植民地帝国を形成していたのを受け継いだものである。ソ連崩壊で多くの民族共和国は独立していったが、現在まだロシアの一部となっているシベリア、極東部も、ロシア人に征服されるまではイラン系、あるいはチュルク系諸民族が支配する地域であった。ロシアがウラジオストック周辺の沿海地方を清朝から手に入れたのは1860年、それによって世界一の図体の国家を作りあげたわけだが、多くの者が指摘する通り、これはロシア人にとってはむしろマイナスに作用しているだろう。
と言うのは、米国が西部を手に入れた時と違って、ロシアはシベリア・極東を本気では開発していない。と言うか、19世紀カリフォルニアでのゴールド・ラッシュをもたらした山師の大群、そして資金はロシアにないのだ。米国はあの広い国土を、高い生活水準への夢、そして誰でも大統領をファースト・ネームで呼べる民主主義で何とかまとめているが、経済で劣るロシアにはそれができない。諜報機関が国民の心をいつも調べ、警察、検察、軍隊が反政府の動きを暴力でつぶさないと、国の統一が維持できない。

ロシア人は従順だと言われるが、実際には強烈な自己主張を持っていることが多い。だからこそ自由、民主主義は、国家の安定を脅かす。世論調査の結果を見ると、都市のエリートは西側的な自由や民主主義を希求しているのだが、大海原のような大衆は、その「西側的な自由と民主主義」が自分達の祖国ソ連を破壊した、そして90年代エリツィン時代の大混乱と経済困難をもたらした張本人だと思っているので、「自由よりもパン」、「民主主義よりも社会の安定」を選好するのである。この「自由にすると国が荒れる。国の安定のためには統制しかない」というのが、ロシアが抱えている基本的、そして悲劇的な矛盾で、これは経済が良くならないと直らない。

ロシアの大衆は、一人の指導者に全面的に依存する。昔なら皇帝、今なら大統領に直訴できれば、自分の願いをかなえてもらえると思っている。だから、プーチンは就任以来常に60%を超える支持率を誇っているのだし、クリミア併合のように「有事」ともなれば、彼への支持率は80%を超えるのである。

このプーチンの支配を支えているのは軍隊、警察、秘密警察、その他の官僚勢力で、大衆は彼らを(軍隊を除き)寄生虫的存在として嫌っている。しかしその「大衆」の中には、下級公務員を含めて政府予算で養われている者が多く、国営企業(経済の70%を占めている)で働く者を含めると、労働力人口の3分の1、家族を含めると人口の半分を優に超すだろう。こうした連中は上部を寄生虫として嫌っていても、反政府にはならない。つまりロシアでは大統領を頂点とする国家構造は大部分の国民の生活基盤そのものなので、政府を倒すことは自分の利益にならない。プーチンが何かの理由で退けば、代わりを据えるだけの話しなのである。

この点は中国や北朝鮮などにも通じていて、国家に依存して生きている者が多ければ、その国の政府は簡単には倒されない。欧米諸国ではよく、「自由の不在⇒不満⇒政府打倒」という単純な図式を独裁国に当てはめて考える人が多いが、外部から民主化・反政府運動を煽っても、その国の政府に依存して生きている国民を敵に回し、結局何も達成できないのである。欧米のNGOの中には人道主義に燃えて、途上国・旧ソ連諸国の民主化を推進する純粋な人達もいるが、「レジーム・チェンジ」を自己目的化して運動する者もおり、彼らが煽る拙速な改革は混乱と難民を生み、国内の利権は一部のエリートが独占するまま、結局民主化は実現せずに終わりがちなのである。

「社会主義経済」は無理

ソ連が消滅したのは1991年12月25日。そして翌1月、新たに発足したばかりのロシア政府は「価格の自由化」を宣言し、それまで国家が決めて何十年も動かさなかった価格達はあっと言う間に上昇を開始した。上述のように通貨が大量に退蔵されていたし、商品が不足していたからである。パンの値段が一日で2倍になるのも珍しくない、典型的なハイパー・インフレが2年にわたって続き、ソ連時代1ドルは1ルーブル(公定レート)だったのが、1993年12月には1300ルーブルとなった。我々外交官も買い物に行くにはルーブル紙幣を袋に入れてでかけ、値段からはゼロを3つ取って考える、つまり通貨単位は「千」なのだと思って考えると、ものの値段の実感がわかりやすいという時代になった。

ソ連社会主義下の計画経済は結局、うまくいかないことがこれで決定的となった。そして国営・計画経済から民営・市場経済に移行するのがどんなに難しいか、それはロシアでは今でも現実の問題なのであり、外国からの大量投資に依存して表面的には急成長した中国でも、国営企業の非効率体質を変えられないという問題は深刻化していくだろう。

コンピューターの発達した現代、計画経済、つまり何をいくつ、いつ作って、どこに誰にいくらで売るかは、管理できそうな気もする。ソ連の時代は、何をいくつ作るか、いくらで売り、どこから原材料、部品を入手するかについての年間計画は役人が手作業で作り、法律として固定化し、ものがいくら売れても、売れなくても、増産も減産もできない状況だったのだが、スパコンのある今なら、経済を常時集中管理できるかもしれない。しかし、次の瞬間何が欲しくなるかわからない人間という厄介なものが主体になっている経済は、計画や管理には本来なじまない。コンピューターがいくら発達しても、経済の完全計画化は難しいのである。

またソ連経済は、格差の小さな社会を実現したように見える。優れた音楽家でも、その海外での公演収入は音楽家団体の中で「平等に分配」され、筆者が雇っていたテニスのトレーナーも、「他のトレーナーにも客がつくよう」客数を抑えられていた。そしてソ連は、医師のような知的労働よりも、工場での肉体労働者の方がかなり大きな所得を得る社会であった。パンや牛乳などの生活必需品は、手厚い政府補助金の下、低価格に抑えられており、職業のない者は「社会の寄生虫」として罰せられる制度になっていたので、一応誰でも職業を持ち、給料ももらっていたのである。
こうして、企業は消費者の需要に応えるよりも、政府から下りてきた「計画」を遂行すれば賃金・ボーナス用の資金をもらえ(利潤をどう使うかは、企業の属する省庁が決めていた)、労働者は働かなくても給料がもらえるという悪平等の社会が実現した。当時は、「国家は賃金を払うかっこうをし(賃金をもらっても買いたいような商品がないから)、労働者は働くかっこうをする」など多くのジョークがあったものだ。そしてこの平等は見せかけでしかなく、経済を差配する共産党・政府の役人たちは特権を貪り、公共住宅建設資材を横領しては自分の別邸を建てていたりしたのである。

事態を決定的に悪くしたのは、軍需が工業生産の多くを占めていたことである。国家を相手に兵器を生産している方が、大衆を相手に消費財を生産するより、企業にとってははるかに楽である。兵器生産においては、原価を下げる必要もない、不良品がいくら出ても、捨てればいいだけである。このために、ロシアの工業面での投資の60%程度は軍需及び軍需関連、そして残りの多くは経済の根幹である石油ガス開発に回っていたと推測され、消費財生産部門には「余り」しか回らなかった。前述の計画経済と合わせて、これではソ連経済は現代の大衆消費社会に対処することはできなかったし、後遺症は今でも残っているのである。
コスト無視体質の軍需企業は、消費財生産には移行できない。生産設備が異なる上に、マーケティング、新技術開発、品質管理、アフター・サービス、いずれにおいてもマインドが欠けているのである。

「国家理念」へのこだわり

ソ連崩壊は、共産主義という国家理念をも破壊した。経済力に乏しい広大な領土を一つにまとめていく上では、前述の警察、秘密警察等「暴力機関」に加えて高邁なイデオロギー・理念も必要である。日本の高度成長期、中国の高度成長期においては、大衆は所得の上昇に夢中になるので、特段のイデオロギーも必要ではないのだが、ロシアはそうではない。共産主義のあと、何を「国家理念」とするかについては今でも熱い議論が行われる。

しかし、高邁なイデオロギーと言っても、中々見つからない。今のロシアは、生活の安定を求める大衆の「自由よりパンを」という脱イデオロギーの立場が基本にあって、これを体した政府が自由・民主主義を抑圧し、全体にどことなく薄汚く、腐臭のする利権構造を、ロシア正教のお説教や、「大きくて強いロシア」という帝国主義的スローガンがかさぶたのように覆っている。大衆ニヒリズムとでも言おうか。最近のEconomist誌は、それを「プーチン主義」(Putinism)と名付けたが、言い得て妙。プーチンはブランド化したのである。

と言うわけで、ソ連崩壊は筆者にとって、国家というものの腸を見せてくれた。ここには、今の日本に参考になることがいくつかつまっている。その最たるものは、戦後の日本で連綿として続いている「保守・革新」の対立は、国民にとって有害無益なものだということだ。「革新」が拠り所としているソ連型社会主義は国民の生活に益さなかったことが明らかになっているし、「戦前日本の国体」という高邁なイデオロギーを掲げる一部の保守の主張も、ロシアでソ連共産主義時代を懐かしむ老世代と同じく、戦後の自由な社会に育った現役世代には理解できない。TPPから改憲問題まで、「保守・革新」のトラウマにいつまでも囚われていると、日本政界・言論界は社会から遊離してしまうだろう。世界の現実を見つめ、その中で日本人の生活と安全をどう向上させていくか、議論を現実的なものに直していく――ソ連崩壊はそのヒントを提供してくれるものなのである。
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