2001年9月11日事件以来の世界 力のバランスの変化と日本
(これは、かもがわ出版から7月に出た「9・11から20年 人類は教訓を手に入れたのか」(監修柳澤協二)に所載の私の論文の原稿です)
筆者は1970年から2004年まで外務省に勤務した。うち海外ではソ連・ロシアで計11年間、ヨーロッパで計4年、米国で計4年、最後に中央アジアで2年勤務している。いわゆるロシア・スクールに属していたから、どこにいてもソ連・ロシア、ひいては世界ウォッチを続けていた。
2001年9月11日、筆者は在ロシア大使館の公使室で執務していたが、日本人秘書が入ってくると、「アメリカで何か変なことが・・・。飛行機がビルにぶつかったみたいなんですけど」と言う。CNNを見るとその通り。こういうこともあるのか、大変だなと思っていると、別の旅客機が飛んできて同じ世界貿易センターの双子ビルに突っ込んだ。「ああ、これはテロだ」と思った次第。二つの高層ビルが跡形もなく崩れた時は、まだわからない犯人への強い憎しみを感じた。人間の生命に対する冷笑を感じたし、近代文明全体への挑戦を感じたからだ。それに何と言っても、このビルは筆者が外務省研修生として、米国に留学した時、完成後まだ間もなく、世界の自由と繁栄のシンボルとして、そして自分の青春の記念碑として、光り輝く存在であったのだ。
この事件は米国の外交政策、そして世界を大きく変えた。それまでは1991年の湾岸戦争で、父ブッシュ大統領の率いる米国は、クウェートに侵入したイラク軍を撃退しただけで―ーつまり冷戦終了後の世界の枠組みへの挑戦を撃退しただけで――引き上げたのだが、2003年のイラク戦争ではブッシュ・ジュニアの米国はイラクを占領し、フセイン大統領を初めイラクを「レジーム・チェンジ」、中東の安定化・民主化を米国で武力で強引に実現しようとしたのだ。米国では「米国は特別――つまり国際法の枠外の存在」という言い方(exceptionalismと呼ばれた)が広まる。米国はNATOを旧ソ連のバルト諸国にまで拡張し、ロシア国内でも反政府運動を支援してロシアを追い込み、途上国の専制主義政権転覆への支援も強めた。これは多国籍企業がグローバルな活動を強め、かつ青年層を中心に米国のポップ・カルチャー、LSBT等の自由主義的価値観が広がったのにあいまって、「グローバリゼーション」への反発をこれら諸国の既得権益層の中に生んだ。
2001年後の20年間は、米国のライバルがソ連(経済面では日本)から中国に替わった時期である。中国は1990年代後半から、外国企業を優遇して直接投資を振興。2000年代には毎年30兆円分を超える資本を貿易黒字――今でも中国の輸出の40%相当は外資企業による――と外国からの直接投資で稼ぐと、それを引き当てに膨大な銀行融資を行って、土地開発、インフラ建設を行う。中国の土地は公有で無料だったから、開発は膨大な付加価値を生み出した。中国のGDPはドル・ベースで2000年代4.7倍に膨れ上がる。
胡錦涛政権は、この高度成長の生みの親である鄧小平の「韜光養晦」の教えを守り、低姿勢で一貫したが、2008年のリーマン危機を60兆円相当の内需拡大で乗り切ると、米国と同等の力を築いたと思い込み、習近平国家主席を先頭に19世紀までの中国の版図の回復を主張し、米国との「冷戦」に至っている。
この間日本は、1990年バブル崩壊後の「失われた20年」のただ中にあり、2012年からのアベノミクスで衰勢をしばし食い止めるも、現在のコロナ禍で、ワクチン接種率で世界60位 という、ガバナンスの劣化ぶりを見せつけている。
以下、この20年の世界とその中での日本、そして世界と日本の今後を論ずることとしたい。
この20年間に起きたことの意味
産業革命に乗れなかった国々からの抗議と脅迫
国際情勢にはいくつかの対立軸がある。大陸プレートがぶつかり合う時、地震や噴火を起こすのに似て、これら対立軸が世界の情勢を規定する。その対立軸をいくつか挙げてみたい。まず、「産業革命に乗れた国」と「乗れなかった国」の間の対立の話しだ。
9月11日事件の背景にいたビン・ラディンのアル・カイダとか、2010年代シリア、イラク等で猛威を振るったISなどのテロ組織の根底には、根源的な生存欲望がある。つまりテロは、収入と権力を獲得する手段なのだ。ビン・ラディンの場合は、1980年代、米国の資金を受けてアフガニスタンでソ連軍と戦ったわけだが、お役御免になると、今度は昔の雇い主に牙をむいて、反米・反イスラエルを旗印にアラブの金持ちを脅してカネを巻き上げた。こうした組織には、途上国の青年たちが出稼ぎ気分で応募する。そして先進国の青年の中にも、資本主義や「グローバリズム」と戦うために応募する者がいる。
この構図は、産業革命と市民社会を実現した先進国、特に米国と、産業革命以前の文明に生きる者たちの間の対立、という色彩を帯びる。米国に対するテロは、西側資本と文化の進出で自分たちの利権と権威を奪われようとしている、旧社会主義諸国、専制主義的途上国での既得権益層の気分を代弁するものでもあるからだ。
産業革命に乗れた国と乗れなかった国の間では、価値観、行動原理が大きく異なる。前者は基本的に法、契約、合理主義を重んずるが、後者はむき出しの力、そして縁故関係で動く。
1991年のソ連崩壊で、米国の思想家フランシス・フクヤマは近代の自由・民主主義が勝利した、歴史は終わったと書いたが、彼はソ連ばかり見ていたのだろう。
米国の自信過剰――グローバルな民主化運動「色付き革命」
日本では全く知られていないが、米欧諸国のNGOには、旧社会主義諸国、途上国で民主主義、市場経済の効用をまるで昔の宣教師のように説教・指南しているものが多数ある。その多くは純粋な使命感・人道主義に駆られたものだが、民主化を大義名分に募金を集めることを狙うもの、あるいは公的助成金を得て他国での反政府勢力を助け、政権転覆=レジーム・チェンジを図ろうとするものがある。
2003年グルジア(ジョージア)、2004年ウクライナで、米国NGOの指南・支援も受けて、現地野党勢力が選挙開票の結果に難癖をつけて大衆運動を組織し、その力で政権交代を実現した。前者は「バラ(あるいは桃色)革命」、後者は「オレンジ革命」と呼ばれたので、「色付き革命」と総称されるようになる。この色付き革命への恐怖は今でもロシア、中国の指導者の心中に根強くあり、米国に歯向かう要因となっているのである。
そしてこれら米国のNGOは、公的な助成金を受けている。それは、次のような経緯をたどった。レーガン時代の1980年代初期、CIAが裏金でニカラグアでの秘密工作をしたことが政治問題化したことの反省で、CIAの手が見えないような工作を可能とするため、当時のCasey・CIA長官がNGOに政府資金を流す仕組みを作ったとされる。議会が共和党・民主党の超党派で、年間約1億ドルの予算をつけるようにしたのである 。この資金はNational Endowment for Democracyという母船型NGOを通じて、民主化運動に携わる多数のNGOに助成金として流れている。総額の3分の1は、共和党、民主党系の団体に流されるという、暗黙の合意ができているそうだ。共和党はInternational Republican Institute、民主党はInternational Institute for Democracyを傘下に作ってこの助成金を活用。全世界で「民主化のための」活動を展開した。その際、助成金はそれぞれの党の活動資金として流用されることもあったという。
2000年代目立ったこれらNGOの活動は、米国大統領、国務省の展開する公式の外交路線と食い違う例も多かった。現地の政権の対米姿勢を硬化させてしまったのだ。筆者がウズベキスタンで勤務していた当時、大統領はカリモフ氏であったが、彼は筆者に対して米国のNGOがグルジアで民主革命を演出したとして強い警戒心を表明し、しばらくしてウズベキスタンの基地から飛び立ってアフガニスタンでの作戦を展開していた米空軍を追い出すと、米国のNGOをほぼ全面禁止にしてしまったのだ。当時の米国大使は筆者の長年の友人だったが、彼に聞いたところ、米国NGOのやっていることは国務省地域局の政策に合うものではないのだが、自分としては何もできない、これらNGOは米国の政党を後ろ盾にしているので、ということだった。
これらの民主化支援、レジーム・チェンジの動きは、米国内で「ネオコン」――工作と軍事力で自由と民主主義を実現する――系人物が何人も政権の要職についたことで、2000年代猖獗を極め、トランプ政権でやっと止まることとなった。その間、レジーム・チェンジの波はリビア、エジプト等の情勢を大きく不安定化。政権転覆の後は内戦状態になったり、それまでの野党が利権を独占して専制主義化したりして、一般国民はただ苦しむところとなっている。あおりを受けたシリアでは、700万人弱もの難民が生まれた。
今バイデン政権の下、こうしたNGOへの助成金がどうなるか、筆者は注目している。
米国のガバナンス喪失――党派対立・国内格差・人種対立の激化
どの国でも、上に立つ者(エリート)には、自分のことしか考えない者が多い。市井の人間がどんなに困っているか、関知しないのである。ソ連崩壊後の1990年代、ロシアは大変な混乱と経済困窮に陥った。路上では老婆が亡き夫の靴下を売って、その日のミルク代を稼いでいた時代である。ところが、その頃少年・少女時代を送ったロシアのセレブの子息・息女に聞いてみると、「そんな時代があったのは気が付かなかった」と言う。
エリートのエゴイズムは米国にもある。そして世界全体の運命を左右する米国でのエリートのエゴイズムは、世界にとっての悲劇を生む。つまり、前出の民主化運動と同様、米国自身が紛争要因となるのだ。
米国エリートのエゴイズムの典型は、ウォール・ストリートでのマネー・ゲームである。もともと1970年代から米国は製造業の海外への流出――日本からの輸出攻勢と米国内労組の賃上げ要求の板挟みに会ったのである――で、一般家庭の所得の伸びは止まっていたのだが、1990年代クリントン時代の政府と議会が金融規制緩和でマネー・ゲームを助長、これで経済成長を演出しようとしたことが、カネでカネを作る不当利益獲得への風潮を生んだ。1999年には都市銀行による投機的投資が解禁されたことで(グラス・スティーガル法の緩和)、マネー・ゲームは膨れ上がる。これは、米国の一握りの階層の所得を膨らませただけで、所得格差は広がる一方だったのである。
2003年のイラク戦争で、財政赤字が膨れ上がり、これもカネ余りに油を注いで、2008年のリーマン金融危機に至るのだ。米国は大々的な公的資金の注入、つまり財政資金を使っての大盤振る舞いと、金融の大緩和でこの危機から急回復するのだが、この回復分の多くは一握りの高所得層に独占されて、景気回復の浸透と雇用の回復には時間がかかった。
これで不満を募らせた国民のうち、白人の保守層がトランプをかついで、内向きな政策と国際的合意の軽視をもたらす。これは中国との経済関係を大いに緊張させたし、欧州の同盟諸国との関係も大きく悪化させた。トランプは生業の不動産業仕込みの、没価値で荒っぽい外交に終始し、自由と民主主義の盟主としての米国のイメージにおそらく取り返しのつかないダメージを与えた。
米国の政治は今や、民主・共和両党、ほぼ半々に引き裂かれており、双方の支持者たちは、相手の政党は自分たちの権利と生活を破壊すると固く信じ込んでいる。これは、米国の内政だけでなく外交の足も引っ張るものである。こうなったことの基本的背景には、生活水準の停滞、格差の増大があり、それは米国エリートのエゴイズムを制御するのに失敗したことに起因する。
一言で言うならば、米国を傲慢な一極主義に向かわせ、国内の格差拡大でガバナンスを失わせて「オウン・ゴール」の道に引きずり出した点で、9月11日のテロは「米国を世界の覇権国の座から追い落す」というビン・ラディン達の大言壮語を、けっこう実現させるものになったとも言えるのだ。ドルが世界の取引で主要な通貨であり続けていること、米軍がグローバルな展開を維持していることから、米国の覇権はまだまだ崩れていないのだが、米国後退の臭いは次第に強く漂いつつある。
中国の台頭とその歩留まり
ロシアのGDPは2000年代、ドル・ベースで実に6.2倍に伸びているが、これは原油価格が同時期に最高で5.5倍(ブレント)にもなったことに大きく依存している。ロシアの経済は石油に依存していて、価格が高い時にはGDPが2.3兆ドルにも届く(2013年)が、いったん石油価格が暴落すると1.3兆ドル(2016年)にまで沈んでしまう。
これに比べて中国の経済は2000年代にGDPを4.7倍に増やしているが、これは工業製品の輸出と国内でのインフラ建設に支えられていて、ロシアよりは足腰の強いものになっている。しかし、「中国経済が強いのは共産党主導の集権体制によるものだ、西側もこれを模倣するべきだ」と言うのは過大評価で、ものごとの本質を見ていない。中国経済の高度成長は自力によるものではない。農業と軽工業の規制緩和による自力での成長は1980年代に見られたが、これは破綻して、学生たちの不満は1989年の天安門事件で爆発する。これを受けて、当時実権を握っていた鄧小平は1992年、外国資本誘致のための優遇措置を設けることを提唱する。
翌年から香港、そして台湾からの投資が急増。じきに日本、西側企業による直接投資のブームとなって、北京、上海等は工場、オフィス・ビルの建設ラッシュとなった。当時は、まだ竹で足場を組んで高層ビルを建設していたものだ。2000年代にはこれら外国企業の工場は大きな貿易黒字を生み出した。その額は2005年以降は10兆円相当を越え、これを信用のベースとして、中国は官民で多額の銀行融資を提供し、新幹線、ハイウェー、高層ビルといったインフラ投資でGDPの40%を支える経済を作った。今でも貿易黒字は56兆円相当(2020年)に上っている。輸出の40%は外資系企業によるものと目されているし、産業の基本となる半導体の自給率は15%に及ばない。中国はとても自力で経済を維持しているとは言えないのである。
そうした中で財政赤字が2021年で60兆円相当を見込んでいる状況は、1985年のソ連が直面していた状況を思わせる。ゴルバチョフはこれに一種の規制緩和で対応しようとして、国内の経済メカニズムを却って破壊。ソ連崩壊に至るのである。
それでもGDPが世界2位になった――そのうちの40%はインフラ投資という、利益率が低い「食えない」ものなのだが――ことは、経済力をうわべでしか判断しない現在の中国指導部に妙な自信を与えている。2008年のリーマン金融危機の際、輸出の急減という危機を、60兆円相当の内需拡大で乗り切ったと思っている習近平は、あらゆる場面で「米国の言うことにはもう従わない」ことを国是とし、19世紀にアヘン戦争で敗れるまでの中国の国威、版図を回復することを目的としている。
これは、自分の力が相手にかなり依存していることを知らない暴挙で、今の世界における最大の対立軸の一つ、つまり米中冷戦の原因となっている。それまでは、資本、技術をめぐる世界の相互依存関係はうまく回り、米欧日は資金・技術・製造機械・先端素材・部品を供給、韓国・台湾・中国・ASEANは最終製品の製造と組み立て、そして製品の主たる消費地は米欧日ということで、一種の共生関係とも言えるサプライ・消費・チェーンが成立していた。胡錦濤政権の時代までは中国の識者も筆者に対して、「中国の発展のためには安全で安定した周囲の環境が必要。東アジアでは米国がこの安定を維持してくれていることを、中国は認識している。同じ伝で、日米安保関係も是認している」とはっきり言ったものだが、中国はこの安定を自ら放棄したのである。
内向き日本の矮小化
日本はこの間、1991年のバブル崩壊以来の「失われた20年」の渦中にあり続けた。その間、日本は半導体産業の多くを米韓台に譲ることとなったし――これは米国の圧力のためと言うよりは、日本の企業が方向を誤ったからである――、携帯電話でも日本発のiモードの世界普及に失敗したことに象徴されるように、家電産業全体が世界市場での存在感を失うことになった。1990年代まで、世界中の大都市の夜は、日本の家電企業の色とりどりのネオンで彩られていたものだが、それが今ではほぼ皆無となっている。
この間日本経済は、何度か仮初めの――と言うのは輸出主導の――回復を見ている。2004年には「平成の大介入」でドルを買い上げ、それで米国国債を買い増した。その実体は米国のイラク戦争への「融資」であっただろうが、同時に米国公認で円下げをはかることができ、つかの間の輸出主導の成長回復を演出することができた。また2012年からはアベノミクスの異次元緩和で、オバマ政権からお目こぼしの円安を実現。7年間にわたって、成長回復への淡い望みを持ち続けることができた。
それでも、日本は経済停滞の基本トレンドから脱却できていない。1985年のプラザ合意で、輸出主導の経済成長をはかるモデルは有効性を失い、財政・金融緩和による内需主導の政策もバブルを招いて停止され、その結果不良債権の山を築いて「失われた20年」の引き金を引いた。その中で円高の中、日本の輸出産業のかなりが中国等に移転したし、日本国内に残る企業も中国・韓国製品等との競争のために、賃上げを抑制したから、賃上げによる内需拡大の道も閉ざされた。
他の先進国でも、内需不足、経済のデフレ基調が問題になっているのだが、米欧諸国はこれを規制緩和による金融業の膨張と、増発による通貨の切り下げで輸出を振興することでしのいだ。日本は(アベノミクスまでは)このやり方を控えた。日本経済は自動車、工作機械、半導体製造機械、半導体用化学材料、電子部品等の製造業でしっかりした基盤を維持しているが、金融業をバブルで膨らませることはしなかったために、世界経済の中で落伍した印象を与えたのである。
国土も人口も比較的小さく、人間が知力、スポーツで特に秀でているわけでもない日本は、戦争で自分を屈服させた米国に安全保障を依存してきたし、世界の論壇でオピニオンを率いることもなく、かつ中国のように国内に大きな市場を持つわけでもないため、不当に軽視されやすい。それに明治維新以来、日本は米欧諸国にとって、自分たちの得にはあまりならず、かえって自分たちから利を吸い上げていく異人種の国―-要するに仲間ではない――でもあったのだ。
こうして日本は、国際政治・経済の場で矮小化の一途にある。安倍総理の時代は残った国力を活用して、日本を「見える化」したが、それでも矮小化の底流は強く、安倍退陣とコロナ禍で、日本は世界で再び埋没してきた。
これからの世界と、その中での日本
では、これからの世界はどうなるか? 米中など主要なアクターはどうなり、産業革命後、自由・民主主義の普及を「進歩」だととらえて進んできた世界の文明はどう方向を変えるのか? その中で、日本はどう生き、何をやっていったらいいか? そういった問題を考えてみたい。
米国は小休止、あるいは恒常的麻痺?
米国は、1861年から1865年の南北戦争の前後、内政だけでなく外交も麻痺した。1848年カリフォルニア州をスペインから奪って以後強めた、太平洋方面への進出の動き――1852年のペリー提督の大遠征がその象徴――も、小休止となった。その間隙にドイツが国力を急速に伸ばし、米国が国際政治の舞台に再び登場するのは、1898年の米西戦争とその結果としてのフィリピン掌握、同じく1898年のハワイ併合等の時である。それでも第二次大戦後、世界の政治・経済体制の勧進元となる前は、世界全体を差配することは、その負担を怖れて避けた。
前述のように今、米国では民主・共和両党の争いが常識の域を超えて、ほとんど生存権を賭けた――と多くの者が思わされている――妥協を許さないものとなっている。実際にはその争いは生死を決するようなものでないことに、いつか気がついてしかるべきと思うのだが、武器の所持が野放しの米国では、それに気が付く前に銃の引き金に手をかけやすい。
バイデン大統領は今のところ、米国外交を正規の軌道に戻した。トランプ大統領のワンマン社長スタイルは過去のものとなり、バイデンは国家安全保障会議、国務省、国防省、CIA等の人事をしっかり握った上で、細部の運営を彼らに委ねる。またバイデン政権は、米国のソフト・パワーの柱である「人権と民主主義」の旗印もしっかり掲げるようになった。しかも米国の経済は、中国に比べて土台がしっかりしている。中国の製造業は海外企業の直接投資に大きく依存しているが、米国の製造業は自前のものが多く、工業生産額では中国に抜かれたものの2位の座を維持。宇宙からエネルギー開発まで、作ろうと思えば作れないものはない。先端技術開発では、拠点をシリコン・ヴァレーからフェニックス、シアトル、デトロイト、ボストンと分散させつつ、活力を維持している。そこには世界中から、最高の頭脳が流入を続けている。起業に有利な法制、融資体制が整っているからである。
しかしバイデン政権の主要な関心は、2年後の中間選挙で勝つこと、そして4年後トランプ勢力の巻き返しを防ぐことである。国防予算は抑制する構えでいるし、対外経済援助は増やす構えでいるものの、2003年ブッシュ・ジュニア政権が打ち上げたMillennium Challenge Account (MCA)構想で起きたように、途上国でしっかりした案件が不足しているために、予算も消化できない状態が起きるだろう。
バイデン政権はオバマ、トランプ両政権と同じく、海外での新規武力介入を控える。アフガニスタンからは撤退する方向だし、ウクライナ、あるいは南シナ海で戦闘に参加することはないだろう。またオバマ時代までは手を緩めなかった海外での「色付き革命」への支援は、トランプ時代に政府からの助成金が縮小されたようだし、これの後ろから糸を引いていたCIAには、新長官として外交官出身のウィリアム・バーンズ元在ロシア大使が就任。彼は、レジーム・チェンジのような策動・工作には後ろ向きと言われている。
こうしてバイデン政権は、同盟国も巻き込んだマルチの外交、そしてバイデン大統領による「口先の」介入に終始することと思われる。それは、東ウクライナとの国境でのロシア軍集結、ロシアの反政府運動家ナワルヌイの収監に対する生ぬるさで証明されている。
ドローンの普及、電波・IT技術の普及で、局地戦の戦法は大きく変わり、貧困国でも十分有効な戦力を築くことができるようになった今、米軍はこれまでの絶対的優位を失いつつある。今後、中国海軍が台湾制圧などによって――それは簡単ではないが――、太平洋に進出した場合、米海軍にとって日本の基地は使いにくいものとなり、日米同盟も揺らぎかねない。
そして、リーマン金融危機を乗り切るための金融緩和が慢性化し、トランプによって無責任な域にまで高められた金融緩和は、既に不良債権の山を築きつつあり、そのうちには破裂して2008年並みの危機を起こすだろう。米国はこれをドルの大増発で乗り切り、諸国に先駆けて成長を回復するだろうが、成長の利益はリーマン危機後と同じく一握りの富裕層に独占され、格差社会の分裂は一層進むだろう。
バイデン政権は米国一国での海外活動よりも、イシューごとに立場を同じくする国々を集めて対応する、多国間の動きを重視する構えを見せている。しかし国内で労働組合を力の基盤としているために、TPPなど貿易自由化の動きには加わり難い。EUとの自由貿易協定(「EU・米国間の包括的貿易投資協定」TTIP)締結も簡単にはいかないだろう。
トランプ大統領は「強い米国」の復活を標榜したが、その独りよがりの外交はかえって米国への信用を失わせ、その退潮を強めることとなった。バイデン政権は、これをどこまで回復できるかわからない。世界は、米国の国内世論の分裂を目の当たりにし、いつまた「トランプ的な米国」、いや、第二次世界大戦後まで米国の基調にあった内向き志向が政権の座に戻るかもしれないという疑念をぬぐいきれないでいる。
中国の大国化は不確定
中国は、自分の成功に過早に酔って、「戦狼外交」という言葉が示すように、周辺で無暗な紛争・対立を頻発させ、これを抑制しようとする米国と実力を越えた張り合いを繰り返している。これはソ連の誤りをそのまま繰り返しているのである。既に少し述べたが、1970年代ソ連は、2度の石油危機の結果起きた原油価格の暴騰で仮初めの繁栄を築くと、それに自らだまされて1979年のアフガニスタン侵入を起こして西側から制裁を強化され、1984年以降の原油価格暴落で財政赤字と不良債権の山を作って、自ら崩壊したのである。今、中国の財政赤字は年間約60兆円相当。そして不良債権は2020年、約50兆円分が処理されている。まだ危機的ではないが、ボディー・ブローには確実になっている。
既に述べたように、中国の経済は張子の虎の性格を強く持つ。それは収益性の低いインフラ投資の大盤振る舞いで底上げされているし、何度も言うように輸出の40%は外資系企業によって行われている。中国での賃金水準が上昇し、かつトランプの中国産品関税引き上げに見られたように、輸出の収益性も保証されないとなると、外資系企業は中国からの脱出をはかるだろう。彼らを中国につなぎとめているものは中国の巨大な国内市場(それでも中国での消費市場は米国の半分に満たない)と、中国に彼らが築いた部品等のサプライ・チェーンの分厚さなのだが、かつて鄧小平が設けた外資への優遇措置は既に廃止されているため、中国の国内市場では中国の企業との過当競争にさらされていくだろう。またサプライ・チェーンは彼らが本国から連れてきた下請け企業も多く、ベトナムやその他の国に移転できないものでもない。
さらに習近平政権が、民営企業を圧迫し、国営企業を優遇する政策を取っていることは、経済の活力を抑えるものとなろう。西側では中国経済の当面の成功を見て、集権経済こそ希望の星であるかのように考える向きが増えているが、筆者はソ連、ロシアの現実を見てきたので、そのようなことは全くないと断言できる。集権経済とは、自分の企業の発展に生涯をかける企業人ではなく、共産党の人事部(組織部)での評価を上げることに生涯をかける役人(党官僚)--彼らは一つの企業でのポストをつつがなく勤め上げると、別の企業や政府機関に異動していく――に、企業の運営を委ねることを意味する。日本の官僚がコロナ・ワクチンの輸入さえろくにできないのを見てもわかるように、役人に商取引を委ねてはいけないのである。
中国は先端科学技術でも米国をしのぎつつあるかに言う人もあるが、おそらくそうはなるまい。先端技術は少数の天才のアイデアだけでは実現しない。半導体の場合、先端のものを作ることのできる機械、化学材料、電子部品、そして無数のエンジニアが必要なのであり、これは米欧日韓台企業に独占されている。今の世界で「ココム」(ソ連・中国への先端技術輸出を統制した、西側諸国間の仕組み)を知っている人は少ないが、筆者は冷戦時代、これを担当したことがある。コンピューター、工作機械等のうち最先端のものの入手を禁止されたソ連は、兵器も含め、あらゆる工業製品--ジェット・エンジンからヴィデオ録画機まで――の生産で大きく後れたのである。
中国は米国との対立に直面し、世界で仲間を増やそうとしている。それは毛沢東の時代、「三つの世界」論を唱え、自らを発展途上国と自認して、世界中の途上国を味方につけようとした時を思わせる。しかし当時も今も、途上国のすべてが反米で中国と組むわけでもない。多くの国は黄色人種に違和感を持っているのがデフォルト状態なので、これらの国とは「カネの切れ目が縁の切れ目」ということになる。既に中国の対外融資は激減しており、逆に米欧日はインフラ建設のための融資を増やそうとしている。
人民元は1992年と2010年の間に、77%切り上がっている(対ドル)。今後貿易黒字が減少し、海外資金が流出する場合には、その過程は逆となり、人民元は切り下がり得る。ロシアのGDPが油価の上下で80%弱も上下するのに似て、中国のGDPも急減し得る。
EUの停滞
EU、あるいは英国も含めた欧州は、産業革命と近代市民社会構築の故地であり、今でも隠然たる政治・経済力、そして世界の知をリードする力を保持している。製造業に偏重していると言われたドイツでも、IT、AI分野での世界的大企業を持っている。
しかしEUは英国が抜けたことで、GDP総額は大きく減少し、2021年には中国に抜かれる趨勢となっている。EU強化の旗を振ってきたメルケル・ドイツ首相は2021年9月の総選挙を機に退くし、メルケルと共にEUを支えてきたマクロン・フランス大統領も2022年には選挙を迎える。EUではコロナ禍が片付いておらず、経済不振がもたらした青年の一部のファッショ化の現象も克服できていない。しかもドイツの経済力でスペイン、イタリア等南欧諸国の経済を支えるという意味を持つ、コロナ復興のための基金(7500億ユーロ)創設も、ドイツ憲法裁判所に議会での承認手続き停止処分を食らっている。
それでもウクライナやイランのような地域紛争では、ドイツ、フランス、英国といった個別の国家が持つネーム・ヴァリューはまだ健在だし、フランスと英国は国連安保理常任理事国で拒否権も維持している点で、国際政治では大きな力をまだ維持している。そして欧州は、「自由・民主主義」の老舗であり、イラク戦争以来すっかり色の褪せた米国流「自由・民主主義」に比べて、権威を失っていない。
「進歩」は有効か、AI文明は何をどう変えるのか
今の世界は、19世紀の産業革命=工業化の恩恵が世界に広がっていく過程にある。現在は、アフリカのいくつかの国で経済発展が顕著である。工業化は中産階級を生み、それをベースに民主主義が広がる、それが「進歩」だ。これからも進歩は続く――というのが、これまでの筆者の理解だった。
しかし9月11日事件以後の20年間の歴史を見ると、疑念がわく。結局、社会における格差がなくならなければ、ポピュリズムやファシズムが民主主義を圧倒し続けるだろう。人間はいがみ合い、殺し合いを続けながらも、物質生活・サービスは確実に向上していく。ロボットやAIの普及で生産性が飛躍的に向上し、働かなくても生きていける社会が実現すれば、人間は向上意欲を失い、怠惰か無用の喧嘩で日を過ごすようになるかもしれない。そんなことにならないよう、今から手立てを講じておかねばなるまい。どうしていいのか、筆者にはまだわからないでいるが。
日本――まだ近代国民国家ができていない
こうした世界の中で日本はどう生きていくか? 「4月現在コロナ・ワクチン接種率は世界で60位」が、日本人の国内ガバナンス、そして対外折衝能力の位置を如実に示している。課題は多い。ここではまず基本の基本、日本を一つの国家としてまとめていた「糊」が最近緩んできて、日本は一つの国家としての機能を失ってしまうのではないかという恐怖感について述べておく。
「国家」は当たり前のものではない。それは人間が作ったものだ。1991年、筆者の眼前で、ソ連という大国が文字通り消失した。日本の場合、国の統一は信長・秀吉によって回復されて、まだ400年強なのである。
今日本では、戦後の日本を曲がりなりにも一つにまとめてきた所得上昇という夢が消えている。しかも米軍による占領の遺物としての日米同盟体制が日本国内のイデオロギー的対立――保守と革新、つまり戦前の超国家主義とマルクス主義の対立――を抑えてきたのが、米国の力の後退と中国の台頭で相対化しつつある。中国が台湾を制圧し、米軍が日本から去るような場合には、保守・革新の対立が息を吹き返し、日本は米中の間、あるいは無鉄砲な国粋主義で、頼りなく揺れ動くようになるかもしれない。
そもそも信長・秀吉による再統一後、日本は近代欧州型の、民主主義に基礎を置く国民国家をまだ十分確立していないのだ。米欧諸国、特に北欧・ベネルクス諸国では、政府は国民が作り上げた、自分達のものなのだという「オーナーシップ」の感覚が、建前ではなく実感として確立しているように感ずる。そこでは、自分の権利だけでなく、他人の権利も同等に尊重される。個人的に親しいわけではない他人は一からげにして、publicとして意識される。両者の間に上下関係はない。Public(社会)の掟を守ることは別に強制されてそうするのではなく、儒教のような長幼の序列に強いられてそうするのではなく、同等の権利を持つ他人を尊重する気持ちから、自発的にそうするのである。つまり北欧諸国では、publicと個人は分離したものではない。
ところが日本では、農村の村落共同体を出てばらばらになった個人を束ねる仕組み、論理が確立していない。欧州の人間のような「個人」、あるいは「市民」としての意識を持たず、ただ他者との交流を断って自分のからに閉じこもる者が出やすい。そうした人間は、政府、地元の役所から多くのサービスを受けていながら、税金を取られること、自分の生活に立ち入られることに過剰に反発する。Publicに一切の権利を認めないのである。彼らにとってはpublicは自分と無関係の存在、あるいは昔の「お上」で、できるだけ触りたくない存在なのである。
このような社会を、明治維新後一つにまとめてきたものは、戦前は教育勅語に体現された、天皇を頭とする疑似絶対主義体制(明治憲法の立憲君主制は外国向けの外面の話しである)、そして戦後は既に述べたように、所得上昇への望み、そして日米同盟であっただろう。
国外の、世界の枠組みが流動化してきた今、日本には――米欧諸国も同様に問題を抱えているのだが――、バラバラの社会が残されている。近代国民国家を率いるべき政治家はヴィジョン、責任感、そして政治を実行するためのガッツと人脈を持っていなければならないのだが、それをすべて備える者は殆どいない。国民に媚び、国民の望むことには見境なく税金をつぎ込むことで権力を維持する。かつてはこのような政治家に代わって国家の運営をつかさどった官僚も、人事権を政治家に握られて忖度を繰り返す存在になり果てた。それに、国民に選ばれたわけでもない官僚には、安全保障や経済について大きな決定をする資格がない。
政治家、官僚、企業の幹部、そして一般人、すべては戦後の経済的な成功に甘やかされて、ハングリー精神、競争精神を失い、自分とは別の何かがすべてをうまく整えてくれるものと無意識に期待している。既に述べたように、これからロボットとAIが果たす役割が増えてくると、人間は働かずして食える状況が現出するだろう。その時、向上心を失って、あてがいぶちの餌をはみ、喧嘩とセックスに明け暮れる存在に人間が堕ちるとしたら、その率は日本人の間では最も高くなるだろう。
宿命論を述べても仕方ないので、これからの日本で最も必要なものを少し敷衍して、本稿を終える。それはまず第一に、既存の企業に依存、安住を続けるのではなく、企業内の改革、そして新規企業の設立、つまり経済の活性化をはかることだ。そして学校、家庭での教育では、子供たちに「市民」としての権利と義務、つまりpublicと個人の関係についての原則を植え付けること、既存のシステムに依存するのでなく、新境地を自ら開いていく気概と能力を持たせることが必要だ。
外交面では米国への過度の依存から少しずつ離れて、自主防衛・外交の部分を増やしていく。自主防衛・外交と言っても、日本一国だけで生きていくことは無理である。自国の存立基盤となる同盟国・友好国、つまり仲間を持つ必要がある。
政治家、官僚、その他日本の政策を形作っていく人達は、思考が惰性化して現実に見合わないものになっていないか、自分が単なる既得権益層になって変革を妨げる存在になっていないか、常にチェックしていく心構えを持たねばならないだろう。
できないことを並べていても仕方ない。この章はこれで終える。
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